001 地球に平和あれ 全人類のために愛と平和、自由と調和を望み、権力欲や、独善と不遜や、誇大妄想に陥ることのない真の人間は、人間と世界を意のままにするために憎しみや復讐欲や殺傷武器を用いることは決してない。 そうした姿勢や技術や道具などは、常に反対に転じる傾向があるという理由だけからも、そのようなことはしない。 実際、血に飢えて暴れまくる戦士からなる激越な軍隊が通過し、狂人の名とその命令により殺害、破壊、壊滅をほしいままにしたところでは、いばらが芽生え、繁茂してすべてを変え破壊してしまうのである。 しかも、これは自称愛と調和、平和と自由を創出するという大義のもとで行われるのだ。だが実のところこれらすべては、戦争とテロを扇動し、言語に絶する悲惨と、激しい困窮と、非常な苦痛を地球人と世界にもたらす者の権力欲、臆病な不安と怯懦、そして憎しみと復讐欲を取り繕うための隠れみのにすぎない。 打つ、切る、刺すといった単純な武器に始まり、携帯火器、銃や機関銃を経て、生物兵器、化学兵器、核兵器、戦車、爆弾、ミサイル、さらには殺傷力のある振動や光線に至るまで、あらゆる種類の武器には、死や苦しみや痛み、そして破壊と壊滅をもたらす災いに満ちたありとあらゆる装置や事物が伴っている。 それらは真の人間が道具や手段として用いることは決してなく、人間の命や、創造および人間によって生み出された一切のものに全く価値を認めない堕落した連中だけが使用する。 それらの事物や武器を使用して、他人を攻撃し、傷つけ、テロによって恐怖に陥れ、憎悪と復讐欲と残虐性に駆られて殺人を犯し、権力欲から犯罪的にも破壊し、壊滅させ、征服する連中は、ほとんど人間の名に値しないであろう。 なぜなら彼らは、血に飢えた野獣よりもたちが悪いからである。 攻撃された者が、自分たちの命と国を防衛し、彼らの獲得物や財産、そして家族を守るために、自分たちも同じ手段や事物や武器を取って使用する以外に選択の余地がない場合は、あくまでも冷静に、いかなる欲望からも自由に、憎悪や憤激もなく、復讐欲を離れ、そして獲得した勝利を祝うこともなく、そうするがいい。 だが実際にそうしたならば、彼らは攻撃する者たちよりもましな存在ではなくなる。 なぜならば、彼らは流血と殺人と殺害により、テロと拷問と破壊により、そして壊滅と苦しみにより、人間の尊厳を喪失して勝利を得たことを喜ぶからである。 事実、勝利を祝って祭典を催す者は、攻撃する者たちと同じく憎悪に満ち、復讐欲に燃え、テロ、殺人、破壊を好み、血に飢えているのである。 しかし、血に飢えた者、拷問者、憎悪に満ちた者、復讐欲や権力欲に駆られた者、戦争やテロの人殺し、破壊者や壊滅者には、この世界に場所がない。 なぜならば、彼らは完全に堕落した者であって、人生をまっとうする資格がないからである。 真の愛と自由、調和と平和を所有する人間は、実権をもって同胞を支配しようとはしない。 彼らは自らを同胞の下に置くか、同胞と平等に見るからである。たとえ彼らが指導する地位にあり、その立場で国民を導こうともである。 彼らには軍隊やテロリストの志向はない。 たとえ純粋な防衛において抵抗し、必要な防衛戦争を行って成果を上げようとも、過度な憎悪、復讐、破壊、壊滅、殺人、憤激に陥ることはない。 とういのも彼らは、人間に相応しいあらゆる形で敵に対して優位に立つことを心得ているからである。 それによって彼らはその内面および人間存在において憎悪と復讐を求めることなく、激怒、憤怒、情熱、ベルゼルケルのような怒りや不機嫌から自由である。 すなわち欲望と憤激、その他すべての堕落の形態こそが敗北を招く理由であり、したがって真の勝利を収めるのは激情家ではなく、冷静で控えめ、穏やかで沈着な人間なのである。 彼らは憎悪と復讐にも、功名心と権力欲にも動かされることがない。 真の防衛戦略とは、エモーショナルな影響にまったく左右されずに行動することである。 なぜなら、これにより明瞭な思考と感情、人間性、そして明瞭な行動も保たれ、何らかの堕落が出現することはないからである。 このような形態の防衛は攻撃者にとっては計り知れず、それゆえ克服することも抹消することもできない優位性をもたらす。 このことは戦争行為とそれに対する防衛行動に当てはまるだけでなく、日常生活や一般的な事柄、特に人間関係においても、何らかの相違や攻撃が生じたときに言える。 実際、あらゆる攻撃において重要なのは、争う相手の人間または敵にとって防衛戦略が計り知れないものであり続け、それによって防衛が効果的であるということである。 要は、防衛形態を隠された状態にしておくことである。 それも、すべての言葉や動きが攻撃的な同胞または敵にとって全く予期しないものであって、それに対して準備のしようがないようにすることである。 そしてこれこそが、同胞や敵をなだめ、善導し、あるいは打ち負かすために必要なファクターである。 つまり、計り知れない防衛戦略を用いることによって、同胞または敵を理性的にし、全体の効力を認識させるのである。 愛と平和、自由と調和を創り出し、そのような状態で確実に勝利する能力を人間に与えるもの、それは計り知れない英知と、理性溢れる思考と感情に従う行動に基づいている。 それらは本来痕跡を残さない価値である。 なぜならば、それらは無定形な要素として何物も触れることはできず、人間には見えないままだからである。 が、それらの要素が内と外で作用すれば、人間においても世界においても高い価値として奇跡を呼び起こすことができる。 しかし賢い人間は、これらの価値が同胞から見られずに、その無定形性において作用し、しかも他の人間が破壊できないように、それらを内面的に計り知れない状態で秘匿している。 そうすることによって人間は、その思考、感情、希望、憧れ、発想および願望が無限に繊細かつ鋭敏であり、害を被ることなく無定形の極みまで行くことができる。 そのとき人間は際限なく謎めいており、静寂の極みまで行き、同胞や敵から聞かれることも理解されることもなく、そのため危害を受けたり、不利な扱いをうけたりすることもない。 それによって生じる利点とは、戦争やテロ、殺人や殺害、破壊や壊滅が行われることもなければ、無理強いりすることもなく、隣人を徹底した非暴力によって教え導き、あるいは敵を負かす手立てが得られることである。 そうすることによって「地球に平和あれ」の言葉が、ついに人類の間で真理となり得るのである。 賢明にも自分自身とその環境において愛と平和、調和と自由に生きる真の人間は、創造的自然によって与えられた真理の水準、知識、そしてそこから生じる真理の神髄を認知する。 そこではおよそ同胞との不和は起こらず、敵や隣人に対する勝利もそれらの目に見える形で現れることはない。 これは言うのは簡単だが、行うのは極めて困難である。 なぜなら人間の自己欲やエゴイズムは、人間の理性よりも、また自ら必要な浄化を行おうとする意志よりも、はるかに大きくて強いのが普通だからである。 このような浄化は、多くの人々にとって実現するのが並外れて難しく稀である。 言葉どおりの真の人間は、進化とその全進歩の道に関して、ひたすら自分自身だけを頼りにでき、また頼りにしなければならない。 というのは、真の人間はあらゆる点において自分に対する責任を全く一人で負うからである。 したがってまた彼は一人ですべてを見、一人ですべてを知らなければならない。 つまり彼は、他の人間が知覚し、見、聞き、知ることのできないものを見、聞き、認識し、知らなければならないのである。 このことは優越性と独創性を意味する。 まさにそれによって進歩と進化の益が達成され、それが人間を攻撃できないようにするとともに、すべての1 無分別に対して、憎悪、復讐欲、嫌悪、不自由、不和に対して防衛できるようにする。 これらの価値を獲得するためには、同胞と環境にまつわる問題を根本的に解決する道を歩まなければならないが、それは決して容易ではなく、かなり困難な過程である。 不安、憎悪、復讐、臆病、テロ、権力欲、報復欲、その他なんであれ、あらゆる種類の問題は、簡単に記憶の中にしまい込んだり、無意識の内に埋もれさせたりして、あっさり忘れることはできないし、またそうしてはならない。 事実、それらは存在し続け、繰り返したち悪くちくりちくりと前面に出てきては、コントロールしきれない害悪をもたらすのである。 その最悪の結果は、最もひどい形での戦争、憎悪、復讐欲、殺人、支配欲と権力欲、それにテロ、狂信または殺害である。 こうした堕落の克服に成功するのは非常に稀である。つまり今ある問題はあっさりと記憶や無意識の引き出しにしまい込んではならず、明確な除去と解決を必要としているのである。 しかしこれはひとえに、今ある問題を焦眉のものとし、意識的にその細部や詳細を究め、分析し、加工し、解明するという方法によってのみ起こり得るものである。 問題を焦眉のものとするとは、それがどのような種類のものであれ、自分自身に、一人もしくは数人の同胞に、または全国民、環境、さらには全人類に関わるものであれ、問題に立ち向かって、それらを意識的に取り上げ、認識可能な差し迫った現実とすることを意味する。 それによって問題は極めて活発になり、まるで爆発のように突如として起こる。 が、この爆発は平穏状態で起きなければならない。それは、焦眉となった問題は思考と感情の内でだけ活発であって、外に向かって突発しないことを意味する。 つまりこれらの問題は外に向かって働くのではなく、ただ内に向かってのみ働くのであり、思考、感情および情動に適合しているのである。 突発は意識的に外に向かってではなく、ただ内に向かって起き、しかも同胞や出来事、事物や状況によって外的な理由が与えられたわけではないので、これを平穏状態と呼ぶ。 それは、外に向かっては平穏が支配し、闘いはただ内面においてのみ起こるからでもある。 つまり問題は外に向かっては与えられていないか、もしくは存在しておらず、したがって問題が突発したときに外面的に克服する必要はない。 それらの問題は、実際には存在せず、内面的に思考、感情および情動の中でのみ緊急に進行するという状態で克服することができる。それにより問題を意識的にコントロールし、分析し、加工し、事細かく解明することができるのである。 つまり、すべての情動およびあらゆる種類の問題は、内面的にのみ緊急状態にもたらされるが、外面的には平穏な状態のままなのである。このことは、すべての情動およびあらゆる形態の問題は、ただ平穏状態でのみ処理し、解消できるということも教えている。 内面的に意識して緊急状態にもたらされた情動、思考、感情およびあらゆる種類の問題は、分析と加工により解消され、中性化される。 しかし、それらは場合によっては、まるで本当に外に向かって制御不能な状態で突発するかのように、途方もなく大きい強度で生じることがある。 そのため、不可欠な事実を自分自身もしくは他人から学ぶことによって得られる必要なモチベーション、意志およびイニシチャチブがあまりに弱いか、およそ存在していない場合は、問題克服の全過程は多くの人間にとってほとんど克服不可能な事柄となる。 この理由から、ごく少数の者がだけが、認識と自己認識および真の自己実現の苛酷な道を歩み、すべての害悪と誤りを自らの内で取り除くことができるのである。 大方の人間は、こうした害悪と誤りにより、真の愛と自由、真の平和、調和から引き離され、遠ざけられて、個々の人間も人類全体も「地球に平和あれ」と言えるようになることにいささかも寄与できないのだ。 人間が地球に平和を創り出そうとするならば、個々の人間が自分自身において始め、自分自身の内的浄化の道を進み、その情動、思考、感情、およびすべての問題、すなわち憎悪、復讐欲、狂信、教派主義、宗教、権力欲、支配欲、不安、臆病、快楽、欲望、さらに戦争、テロ、殺人、拷問、死刑、利潤追求などを克服して解消し、最終的に消滅させて、真の愛と調和、平和と自由に対してそれらに相応しい場所を与えなければならない。 この場合に忘れてならないのは、一つの価値は他の価値なしには存在できないということである。 なぜならば、各々の価値はそれぞれ他の価値に依存しているからである。 つまり愛は平和と自由と調和に依存し、調和は愛と自由と平和に依存し、平和は愛と調和と自由に依存し、自由は平和と調和と愛に依存しているのである。 そして実はこれらすべての価値が一緒になってのみ一つの全体が生じるのである。 それは幸福と喜びにおいて把握され、すべての人間に生きていることの満足と、生命に対する畏敬の念を厳かにもたらす。 しかし残念なことに愛、平和、調和、そして自由が外面的および内面的にどのような価値を持っているか理解しているのは、ごく少数の人間だけである。 大方の人間は自由という言葉で、したい放題のことをしたり、させたりできることという程度の理解していない。 しかしまさに自由に関して、これは見当外れである。なぜなら、自由は内面的にも外面的にも、個々の人間が考え得るよりもはるかに多くのものを体現しているからである。 すなわち自由とは、自分でしたり、させたりすることや、欲求、欲望、本能、願望など常に充足を求めるものを満たすことに対する一般概念ではない。 自由はそれよりもはるかに多くのものを意味している。 それはとりわけ人間の本来の率直さを体現しているからである。 それにより、人間は自分自身においても、外的な環境においても、その同胞に対しても、すべての事柄において不安も恐れもなく率直かつ正直でいることができる。 しかも人間は自分自身に対しても、同胞に対しても真理の事実をねじ曲げたり、隠したりする必要はないのだ。 愛と平和、調和と自由は、すべての人間が意識すべきであり、また意識しなければならない事実と価値であるが、まさにこれこそが人間に欠けているのである。 なぜなら、人間は昔から自分自身の内にこれらの高い真正さと崇高さを探し求める感覚を失っているからである。 そして人間にそれらを告げた賢者や預言者を罵り、辱め、さらには殺したのである。 これには宗教や政府の高位高官の人間も熱心に協力し、今日まで同じことをし続けている。 そしてまさにこれら政治と宗教の権力者や支配者は、これまですべての国の国民が無知であり、これからもそうであることに対して、昔から、そして今日も責任があるのだ。 権力者や支配者、統治者や宗教家、そしてそれらのあらゆる役職の代表者は、今日なお国民と個々の人間に対する彼らの義務を怠っており、これを正しい生き方と、意識に関わるあらゆる要件の関連の枠内で教え、啓蒙するという努力を払わない。 なぜなら、彼らが実のところ努めているのは、国民にありとあらゆる種類の税を科し、自分たちは法外な報酬によって快適で豪華な生活を送れるようにすることだけだからである。 が、それだけでは足りない。というのも、彼らは自分の国を裏切って売り払い、戦争やテロ、破壊と破滅を広め、さらに全く無意味なプロジェクトに何十億という金をつぎ込み、苦労して稼いだ国民の税金を愚かで無意味なことに浪費しているからである。 そして彼らが何よりも気に掛けないのは、真の愛と自由、調和と平和を創り出し、最後に「地球に平和あれ」と言えるようにすることである。 人間は何をしようとも、それを自分自身の幸福のためだけでなく、隣人とすべての同胞の幸福のため、すなわち全人類、そして近い後世や遠い後世のためにしなければならない。 この幸福はあらゆる点で、実効的な知識とそこから生まれる英知の神髄が真の愛と自由、平和と調和によって加工されることに基づいている。 そこには勇気と共感、そして人間性も根を下ろし、それらが喜ばしくも人間を強く正しくしているのである。 自分の欲望と願望を満たすためだけに行動することは、皮相で、利己的であり、最後には必ず悪い結果を生じる。 それゆえ連帯と相互理解と地球上のすべての人間の共存のみが、真の愛と調和、平和と自由が根をおろして現実となるための前提を満たすということを理解し、把握しなければならない。 それによって人間は不安も恐れもなく言うことができる、「地球に平和あれ」と。 ビリー セミヤーゼ・シルバー・スター・センター 2002年12 月14日17 時23 分 002 平和と自由 平和:この言葉ほど、我々のこの現代において乱用され、誤用され、目的から外れ、汚された言葉は他にほとんど例を見ない。 平和とは、口に出せば肯定的な思考と感情、同調と安らぎ、そして調和と共同の感覚を呼び起こすはずの言葉である。 にもかかわらず、それは繰り返し用いられる無意味な決まり文句に貶められている。 とりわけ極めて無責任で、犯罪的で自分勝手な多数の政治家や、堕落した宗教や教派の指導者たちや、良心のない独裁者によってなされる。 人間は好んで平和という概念を口にするが、それをする大部分は、この言葉の意味をかけらでも理解し、その価値を認識しようという意志もなければ、その力もないのだ。 復讐や戦争、テロや報復を叫ぶ者たちには、この言葉がどれほど深い意味を孕んでいるか、この概念にはどのような畏敬と尊敬、調和と愛の響きが混じっているか全くわからないのだ。 ただ単に語られるだけでなく実行されるときに、この言葉に宿る計り知れないエネルギーは、自由に発展でき、その中で生命が平和な進路で発達でき、そして豊かさが行き渡っている社会に現れる。 この概念をただ単に自分自身の利益のために乱用することなく、それを自分の生命に統合して、すべてを同胞に手本として示す生命形態の、巨大な責任と、成熟と、必要な進化の水準が、惑星全体を平和にできる力を発揮する。 だからなおのことひどいのは、指導者と呼ばれる非常に数多くの連中が、民主的に選ばれようと、独裁的に自分で就任しようと、政治、経済、宗教いずれの分野であろうとも、すべての地球市民に、どんな種族や宗教に帰属していると感じているか、どんな肌の色をしているか、どんな社会に属しているかに全く関わりなく、理性と分別をもって適切に平和に満ちた共存と共同をもたらし、支え、保証する能力がないということである。 すべての統治者が堕落した人間の屑に属しているわけではないので、平和にする能力がなく、誇大妄想で、権力に憑かれ、利潤の追求しか考えない、傲慢不遜で、自分勝手で、人間の生命形態として堕落した政治家や宗教指導者や独裁者は、限られた数しか出現しない。 だがその代わり、人間に相応しくない政治の影響は、人類全体および惑星全体で測るならば、このうえなく凄まじいものである。 誤った政治の影響、宗教や教派の悪影響、ミスリードされた経済から生じるこれらすべてのひどい弊害は、将来さらに最悪の形で深刻化するだろう。 現代の政治家や独裁者、教派のボスやすべての宗教の教会長、そしてあらゆる勢力のテロリストたちは、今日の時代において平和という言葉の力と意味を、ただ混沌、テロ、拷問、強姦、破壊、そして殺人や殺害とだけ結び付いている惨めな決まり文句に貶めた。 彼らは人間蔑視の犯罪者や殺人者であり、政治や宗教や教派に巣食い、地球人が現在置かれている全世界的な混沌をもたらした張本人である。 彼らは政治や民主主義や宗教に関する誇大妄想じみた観念や個人的な世界像を抱いているので、往々にして平和や自由や愛や民主主義について常軌を逸した理解を、暴力と流血により他の人間や文化に押し付ける。 その間に政治、経済、宗教および教派の勢力に加え、純然たるテロリストの勢力も極端で無責任になった。 彼らには責任感ある首尾一貫した行動は全く不可能だが、それは彼らが行動や行為において完全に堕落しているか、あるいは柔弱になっているからである。 また彼らの多くは、一切のことについて駄弁を弄さねばならないという思い違いをしている。 しかし必要なのは首尾一貫した行動と介入により、事態が悪化するのを緩和し、できれば回避することである。 だが、とりわけ政治と宗教に見られる数多くの妥協は際限のないつぎはぎ細工である。 なぜならそうした妥協は、理性と分別に基づくものではなく、なんらかの政治的、経済的または宗教的な依存関係の上に作られたものであり、全く現実的な解決とはならないからである。 そのため特に政治的な決定や法律などは、しょっちゅう変更されたり修正されたりするが、それは万事において理性的な基礎が欠けているからである。 その結果として、混沌や市民の混乱はますます大きくなるのが常である。 一部の無能な国家権力者の政治的な優柔不断と責任感の欠如は、ユーゴスラビアの惨事に見ることができる。 特にヨーロッパの政治家の大部分は当時ユーゴスラビアで全く役に立たなかったが、彼らは今日も役に立っていない。 なぜならば、すでにすべてが正常になり、なんとか再び丸くおさまったという無責任な意見が、かつても今もまかり通っているからである。 そのためユーゴスラビアの戦争指導者たちは、自分たちの母国を阿鼻叫喚の地獄に変えることができた。 そして殺人的な流血の戦闘、拷問、特定の住民グループの大量虐殺、テロ、強姦などが行われている間、わけてもEUの政治家たちは、飽きもせず、すべてが和平計画の軌道に乗っているという嘘を主張し続けた。 しかし実際には、大地は際限のない殺人と拷問と凌辱により人間の血に染まり、暴力とテロと憎悪によってかつての多民族国家は、いわば中世の時代状況へと投げ戻された。 それも、自由思想を奉じ、見かけは民主主義的な20世紀と21世紀のヨーロッパにおいてである。 そしてNATOもその戦争により殺人、死、不安、破壊、驚愕をはびこらせたことについては、意図的に沈黙が守られている。 1800年頃から続いている宗教紛争、数百年間未解決の問題、そして民族差別が、何千という人間を殺害することによって復活した。 欧州の優柔不断と政治的な柔弱化が、戦前、戦中、戦後を通してバルカン半島の情勢を一層悪化させたのである。 国家権力者は常に首尾一貫して、場合によっては適切かつ人間として責任の負える軍事的介入を含む、断固たる行動で介入することを決断するか、すべてをあるがままに放置するかのいずれかである。 だが、決して見え透いた口実を探してはならず、また何もしなかったり、何かを生半可に企てたりしてはならない。 この場合に絶対にないがしろにしてはならないのは、どのような道を進むかということである。 というのは、殺人、殺害、拷問、強姦、破壊、その他の堕落した行為が生じないように、常に必要な行動を人間的かつ公正に実行しなければならないからだ。 このような形でのみ、人間としての尊厳と、すべての生命や人間の偉業に対する畏敬の念をもって貫徹できるのである。 本来NATOとその加盟国は、バルカン半島で失うものは何もない。 が、NATOはそんなことは少しも気に掛けず、邪悪な暴力をもって外国の主権領土に侵入し、その国民から自国の問題を自分たちで決定する可能性を奪ったのである。 民族というものは内的な発展過程を通してのみ、平和な共存と共同の時代へと上昇できるのである。 しかしヨーロッパのヒステリーと、NATOおよび加盟国の偽りの責任感が万人を魅了した。 この誤った責任感は、メディアや政治家によって長期にわたりヨーロッパ人に繰り返し吹き込まれた。その結果、NATO連合軍が外国に戦争を仕掛け、死と破滅と凄まじい破壊をはびこらせたとき、多くの人間が熱狂的に賛同したのである。 これと同じことをアメリカ人とイギリス人はイラクで行い、残虐なサダム・フセイン政権を倒し、イラクを救いようのない混沌状態に変貌させた。 しかしこれについて付け加えると、アメリカ合衆国大統領ジョージ W.ブッシュがその殺人的で犯罪的な策略をもってイラクでしたことは、サダム・フセインがその残酷な全盛期にしたことよりもはるかにひどいものである。イラクで戦争をしているブッシュの手先は野蛮で退化した獣であるが、それは別のアメリカ合衆国大統領の指揮下で行われた他の戦争でも全く同様であり、これからも変わらないだろう。 なぜなら、世界がそれについて黙しているからである。 アメリカとイギリスが軍事的に拷問や強姦を働いた下劣な男女に対して行っている軍事法廷による新旧の見せかけの審理は、真実にも、戦争被害の抑制にも、あらゆる悲惨、害悪、困窮の賠償にも寄与しなければ、殺された人々を生き返らせるわけでもない。 もちろん拷問犯罪が公に知られたときも、すべてのことが否認され、真の証拠写真も偽造と見なされて、犯罪はなかったと主張されたが、それが当然であるかのように扱われている。 第一次大戦と第二次世界大戦、ベトナム、ユーゴスラビア、アフガニスタンおよびイラクでかつて起き、一部は現在も続いている紛争のような規模の問題は、NATOやアメリカやイギリスがしたように、外から軍隊や政治権力が殺人的、破壊的、犯罪的な介入を行うことによっては決して解決できない。 このような混沌とした地域や国家では、戦争行為や占領軍は、最良の場合でも見せかけの和平をもたらすことができるにすぎず、破壊されたものをすべて復興するには何十兆もの費用がかかる。 残忍にも拷問や屈辱や凌辱を受けたすべての人々を、彼らの心理的、意識的、肉体的なダメージから回復させることもできなければ、残酷かつ野蛮に殺された人々を生き返らせることもできない。いわゆる敗戦国に軍隊が駐留して、すべてのものを再建することはできるが、それは為さねばならない仕事のほんの一部である。 しかしこうした一切のことも平和共存に寄与することはいささかもない。 紛争当事者はそのような紛争の解決を自分で成し遂げなければならない。外部からのいかなる影響も、長期的に見ればすべての当事者に一層悪い結果しかもたらさないのである。 戦闘的な紛争は多くの国に存在している。特にスーダンでは何千という無実の人々が、男も女も子供も大量に虐殺され、正規民兵団やゲリラ兵も拷問を行い、血の興奮状態に陥っている。 この場合、戦争をしているのは国と国だけでなく、種々の宗教団体の信者も自分たちの信仰のために殺し合う。 しかしこの事実が世界に知れ渡ることにならないのは、ジャーナリズムにとって十分にセンセーショナルではなく、読者もそれほど関心がないからであり、またすべてが非常に離れた所で起きていて、直接関わりがないからである。 同様のことは「グアンタナモ湾」についても言える。そこではいろいろな国の戦争捕虜600人以上がアメリカ軍により非人間的な条件のもとで拘束され拷問を受けた。それは長い間日常茶飯事になっていたが、もはや誰も気に留めない。 世界の世論はアメリカの機嫌を損ねないよう、だんまりを決め込んでいる。なんという下劣さであることか! バルカン半島の紛争は永遠に燃え盛る業火であり、その炎は当事者である民族が消さなければならない。 彼らのみが理性と分別の道により炎を抑え、消すことができるのである。 だがそれは、数百年にもわたるこれら多くの争いと、何ももたらすことのない宗教的対立と血の復讐などが、いかに無意味であるかを認識することによってのみ可能である。 どんな力をもってしても、外から平和を押し付けたり、もたらしたりすることはできない。それは不可能である。 人間も社会も民族も、望まれる平和は多大な労力を払うことによって作られ、獲得できるものであり、そのために個々人の理性と意志が求められているということを自分で認識しなければならない。 しかし、堕落した指導者が繰り返し権力の座につき、人々に不和と憎しみと妬みをもたらし、アジ演説と復讐の叫びと報復欲により彼らを戦争や拷問へ、女の凌辱や子供の性的虐待へ、殺人や殺害へ、復讐、憎しみ、そして報復へと誘導する限り、堕落し無責任で、権力欲に憑かれ、不遜で犯罪的な連中が、自分の国だけでなく他の国々の運命をも決定する。 これに宗教がその気違いじみた教えで駄目を押して、そのような紛争を煽り、戦争とテロを助長する。 我々の惑星では種々雑多な宗教とそれらの何千という教派が、人間を愚かにする堕落した教義で、いやおうなく紛争を生み出している。 なぜならすべての宗教と教派の背後に潜んでいる不合理と信仰の非理性とが、人間をますます混乱させるからである。 これもまた、平和共存に、世界を包み込む共同体に到達できない一因である。 宗教と、そこから派生する教派が存在する限り、戦争とテロはどうしても避けることができない。 この理由からだけでも人間が、自分自身の堕落した目標のために自分たちを利用しているのは誰か、また国を平和と自由のうちに発展し得ることに貢献できるのは誰であるかを認識することは、民族の発展にとって基本的にとても重要なのである。 まさに今日の時代、すなわち旧ユーゴスラビア諸国、アフガニスタン、イラクをはじめ、他の多くの宗教戦争やゲリラ戦争の中心でくすぶる不和やテロや拷問などの極めて危険な火種や、組織された国際テロリズムが世間を震撼させている時代に、再び平和について語ることが多くなった。 この現象はスイスや全ヨーロッパだけでなく、世界中で起きている。しかし憎しみと不和は何世代にもわたって人間の体を毒してきたので、彼らはそもそも平和が何を意味するか全くわからなくなっているのである。 特に最近では、EUとNATOおよびその加盟国が、バルカン戦争勃発前に、政治的に戦争を回避することに成功しなかったことも、その一因となっている。 この事情は、EUという機構全体およびすべてのEU加盟国が無力、無能、無資格であることを物語っている。当時、バルカン戦争が始まる前に、最悪の規模の内戦になるであろうことは明らかだった。 しかし誰も指をやけどしたいとは思わず、それゆえまた首尾一貫した政治的行動によって必要なステップを開始しようともしなかった。 すでに数千人も死者が出た後で、ようやく遅ればせに何かをしようと決心したときも、すべては中途半端で、必要な首尾一貫性を欠いたものだった。すべての当事者は直ちに武装解除し、責任者を即刻裁判にかけ、判決を言い渡すべきであった。 しかし責任のあるほとんどの殺人者は、いまなお自由に歩き回っているか、あるいはデン・ハーグの国際司法裁判所で自分たちが無実であることを演じて見せ、それによって国際司法裁判所を全く信用できない笑い者にしているのである。 アメリカに至っては、自国の戦争犯罪人が国際司法裁判所に裁かれるのを拒んでいる。 さらに戦争犯罪人に対する裁判が何年にもわたって長引いていることも、国際司法裁判所が完全に無力であることを示している。 また何千もの人々を殺した殺人者に判決が下っても、裁判官の茶番と柔弱さのために、大量殺人者は意地悪そうにほくそ笑むだけである。 そして生涯社会から追放され、残りの人生を流刑者として送る代わりに、15年ないし20年もすると再び人間社会に放たれ、またもや凌辱や殺人を犯すのである。 国民の指導者や裁判官が柔弱で、典型的に政治や裁判において首尾一貫せず、ただ語るだけで、必要な枠内の行動さえ起こせないことは、いかに人間がつねに責任を逃れようとするか、そして状況を認識して正しく評価判定できないために、意識的に必要な論理をもって行動することができなかったかを物語っている。 だがこれにはすべての無能な精神科医も責任がある。彼らは役立たずなほら吹きで、どんな重罪人にも、それらの嫌悪すべき行為に対して訳のわからない情状を認める。その結果、重罪人は軽い罰を受けるだけで、しばらくすると再び人間社会に戻されるのである。 今日、どんな国民の指導者を、理性的で責任感のある人間として、つまり常に真の平和のために言葉で肩入れするだけでなく、これを責任ある仕方で実現するために行動する用意のある人間と見なすことがきるだろうか。 指導者たちが下賎にも市民に信じこませようとするように、もし彼らが本当にそのような人間であるならば、数百年来今日に至るまで存在している地球のすべての紛争はないはずである。 もし国民や宗教の指導者たちが彼らの大言壮語を自分自身の肝に銘じて実行していたならば、彼らは平和という重要な言葉をとうの昔に実現し、とっくに時機を失した人間に相応しい状態をこの惑星の上に生みだしただろう。 そうする代わりに上層部の人間、国家権力者、宗教の頭目およびそれらの手先は互いにたぶらかし、だまし合っている。 同様に彼らは、天に向かって叫んで、文字通り悪臭を放つような人間蔑視のやり方で自分たちの国民をもだますのである。 そしてこうしたことはただすべて、破廉恥にも嘘とペテンで自分たちの利得をだまし取るためなのである。 彼らはただ自分たちの権力、自分たちの利益、自分たちの利潤のみを追求し、国民と世界に自分たちの権力を発揮することに意を用いる。 そうしない場合でも、彼らは疑わしい平和に浸った国で名声の上にあぐらをかき、自分の国で真の平和を獲得し、あるいは殺人や殺害が行われている所で平和と調和を生み出すために必要な責任を引き受けようとは決してしない。 他方で、国を裏切り、屈辱的にも祖国の主権を高く売り付け、自分たちの国家を疑わしい宗主権の支配下において自由を破壊する国家権力者とその愚かなシンパがいる。 ヨーロッパ域内では比較的うまくいっているとは言え、平和な印象は全くの見せかけにすぎない。 世界平和に貢献することのできない様々な国や、それらの指導者が引き起こす政治的な影響はまぎれもない。 多数の国民の指導者は自分たちに任された地位を、低劣で無責任な仕方で利用している。 彼らは憎しみ、不和、妬み、そして戦争を撒き散らし、その他の災厄を引き起こす。 彼らの気違いじみた病的な思考と振る舞いは、地球の住人と惑星全体に殺人と死、悲惨とテロをもたらし、それが結果として自動的に全人類に影響を及ぼす。この場合、彼らが現在のところ幾分か平和なヨーロッパやその他の地域で生活しているか否かはどうでもいい。 なぜなら、軍隊、テロ、宗教および教派が引き起こすあらゆる事件の影響およびその結果は、遅かれ早かれ一人残らず全員に降りかかるからである。 ヨーロッパのほとんどの国では欲しいものがすべて手に入り、数十年来、戦争その他革命的な騒動が起きていないからという理由だけで、ヨーロッパ人が世界平和に対するグローバルな責任を免れ、またこの状態がずっと続くと信じるのは幻想である。 人間としても、人間相互間においても堕落した戦争の推進者や扇動者がいまだに存在してなおも悪事を働き、一部は疑わしくも「政党民主主義的に」選出された国民の指導者として振る舞っているが、彼らを抑え、その行動に終止符を打つことは、すべての人間の共同責任である。 平和はとりわけ対話する用意のあることを前提としているが、それは理性的な妥協なしにはうまくいかず、いずれの側も譲歩しなければならないという認識を伴う。 戦争を行い、自称人道的または宗教的な目標のために人間を殺すことは、とりもなおさず邪悪、残忍で、人間に相応しくない暴力を働き、同胞を虐待、抑圧、凌辱し、虐殺することにほかならない。 だがこうしたことはかなりの人類犯罪者にとっては児戯にすぎない。 同じことは堕落した国家権力者だけでなく、秘密諜報員や軍隊として拷問、殺人、強姦、凌辱を働く彼らの手先にも言える。 実際、堕落した政治的思考や宗教的狂気に憑かれた下賎な輩がほんの数人もいれば、自称平和で崇高な目標を達成するために、全国民を混沌へと追いやり、人殺しとテロをはびこらせることができる。 それによって平和を愛する無数の罪のない人々、女も子供も男も、困窮と悲惨、苦痛と死に苦しめられることを、彼らは少しも気に留めないのである。 戦争は正常なことであり、人間に付随する現象であるということが再三言われているが、地球の歴史は今日の時点に至るまで、この恐るべき「正常さ」にかけてはまさに言われる通りであるということを示している。 だがそれは、地球人が自動的に今後も攻撃性を維持せねばならないことを意味するものではない。 この攻撃性は数千年来地球人に付随していて、宗教、教派、血と権力に飢えた国家権力者、狂信的なテロリストと並び、不和と不自由、また同胞に対する無関心と冷淡な状態を生み出している主因をなしている。 しかしだからと言って、世界中で人類に食い込んでいる一切の邪悪が、これからもすべて存続しなけれならないことを意味しない。 平和は財産であり、計り知れない価値であるが、それは地球人が多大な努力を払って生みだし、獲得しなければならない。 しかしせめて自分の中だけでも平和を生み出そうと本気に努めるならば、少なくとも現在の地球の状態が示しているように、それは個々の人間にとって非常に苛酷な戦いを意味する。 なぜならば、その戦いは外に対しても同胞と平和を結び得るためには必要だからである。 地球人の攻撃性と、故郷の惑星地球における戦争やテロなどの歴史的事件に鑑みて、すべての人間は将来平和に共存することを目指さなければならない。 平和は決して外から押し付けられるものではなく、また戦争やテロ、その他の暴力的な手段で獲得できるものでもない。 それは不可能であるどころか、その反対である。暴力によって平和を創ろうとしたり、テロ攻撃によって何かを肩代わりしようとしたりするならば、自動的に新しい暴力や紛争を誘発しても、平和的な考え方や自由な方向を生み出すことは決してないのである。 本当の平和は何よりも、すべての人間が自分の思考、感情および行動をみずから明確なものにして、暴力と強制によってはいかなる問題も解決できず、絶えず新しい問題が生まれるばかりであろうということを認識することを含んでいる。 この認識は地球人の間で緊急必至に成熟し、外に向かって伝えられ、そして同胞に手本として示されなければならない。 この状態が手本として示されると、遅かれ早かれ自動的に他の人間も大なり小なり見習うようになる。 なぜなら、これらの人間は、意識の中でそれが何か貴重なものであることを認識するからである。 だから、この認識が広まるのは最初はまばらで時間もかかるが、やがて価値あるものの全体を認識する姿勢と能力を備えた他の人間に雪崩をうったように伝えられる。 もちろんこのような洞察になかなか到達できない人間や、それどころかそれを拒絶し、暴力の道を歩むことができると思い込んでいる人間もいる。 だが彼らも遅かれ早かれ真の平和に心を砕いている多くの人間によって、いつの日かより善いものを教えられ、それと向き合わなければならない。すべてがばらばらになっているように見え、人間の命が全く価値を持たない今日にあっても、諦めたり、現実から目を背けたりしてよい理由はない。 否、むしろ立派に人生を送っている人間は、それを続けて行かなければならない。 詐欺師、殺人者、その他いつも混沌や憎しみ、嫉妬や不和を生み出す堕落した下等な人間に腹を立てるべきではない。 むしろこれからも、存在の基礎として、一切を数年、数十年、数百年にわたってより善いものへと変えていくのに必要な生命、調和、真実、畏敬、愛などの基本的価値に準拠するべきだし、しなければならない。 個々の人間は平和という言葉の意味と価値に新しい勢いと深みと力を与えるのを助け、そしてその責任を引き受けなければならない。 具体的に言うと、平和は社会のすべての階層とそれを構成している人間に、誰もが発達して進化していくための基盤を提供でき、招来すべき状態をも意味する。 国民、したがってまた個々の人間は常に理性と分別をもって、ひいては内面の学習と成熟のプロセスによって認識して、真の平和のみが本当に進化を意味し、戦争、テロ、破壊、迷妄、狂信、変質は退化と災厄を引き起こすだけだということに意識の照準を合わせなければならない。 この内面的な認識およびそれと結び付いた学習プロセスは、人間が平和と自由、愛と調和において共生し、人間の共同体が現実に機能するための基盤である。学問や技術や生活の質などは、平和な時代に予想外の規模で発展し拡大でき、それによって途方もない未来の展望が開ける。 それはすべての人間においておのずから展開し始め、追求するに値する進歩をもたらす。繁栄した社会に否定的な要因、たとえば社会の崩壊や犯罪の増加などが生じたら、これに対抗してその進行を食い止めるためには、人間は人生を意識的に生き、自分の強さと弱さを認識し、人間の生命形態として意識的に自らと取り組み、あらゆる方向に向上しなければならないのである。 平和は福祉と発展と進化を保証する。戦争やテロ等は、破壊や退行と結び付いている。 憤りや憎しみや妬みが決して人間において肯定的なものや善いものを生み出すことができないように、これは暴力やテロや戦争によっても可能ではない。 どんな社会も個人も破壊と戦争によって発展できないし、人間相互において堕落した紛争による解決も決して何らかの肯定的なものを生み出すことはできない。 生命について考察する際は自分自身の観点や利益が中心をなしてはならず、同胞とその利益や必要、さらに平和、自由、愛および調和も熟考に、したがってまた思考と感情に取り入れて、決定を下す際に平等を配慮することができるようにしなければならない。 自分の観点に立つだけだと非常に視野が狭くなり、決して現実的な効果や真の平和には至らないだろう。 もし人間が同胞の利益を顧みず、自分の利点だけを考えたら、平和と愛にも、自由と調和にも行き着くことはできない。 すべての関係者の微妙な差異を考慮することが大切であり、さもなくば絶対に長続きしない。政治的、宗教的狂信と堕落した歴史意識による数百万もの犠牲者は、そのような思考と感情と行為が狂気であることを示している。 そのような歴史意識に基づいていろいろな陣営が自らを歴史上正当と見なして他の国や地域を要求するが、これはその無分別な行為により殺人とテロと無政府状態で覆われたすべての人間を犠牲にしてなされるのである。 テロ政策を支持し、自らを正当と見なし、いわゆる和平交渉で勝者たらんと欲する政治家やタカ派連中を除けば、両陣営には敗者しかいない。 さらにひどいことに、戦争や紛争は当事者の地域に限られていない。 なぜならそれらはむしろ、直接的であれ間接的であれ、直接関与していないすべての国家や人間に影響を及ぼすからである。 責任を負うべき政治家や指導者は、自分たちの破壊と大量虐殺の政策によって何をしでかしているか、今日に至るまでまだ理解していない。 彼らは他の人間に対して責任を負うことができず、いわんや他の国々に対して責任を引き受けることは不可能である。 人間蔑視の犯罪的な二つの集団が数十年来互いに交戦状態にあり、それぞれ自分たちの国民を平和な時代へと導くためにいかなる手段も講じようとはしない。 誤った歴史の解釈に基づいてでっちあげられた理由に支えられた論拠は、すべての陣営にとって紛争を破壊、強姦、拷問、殺人、殺害で埋め尽くし、テロの応酬をし、そして考えられる限りの可能性を利用して平和を妨げ、憎しみを煽るための十分な理由となるのだ。 人間蔑視の犯罪的で変質した政治家と犯罪的なタカ派を抱えるイスラエル政府もそうであり、彼らの戦争扇動的な政策はパレスチナ人との共存を不可能にしている。 しかし他方にはパレスチナのテロリストと公認された政治集団およびそれらの手先として働く殺人者がいる。 彼らの本来の関心は、イスラエル人に対して決して終わることのない永遠の戦争を仕掛けることである。 いずれの陣営もその思考は非常に堕落、変質して原始的なので、もはや解決を探すことも見つけることもできない。 それは責任を担うべき人間に相応しい、恒久的な平和を保証する解決である。 それを彼らは全く望んでいないのだ。それにもかかわらず彼らは飽きもせず和平プロセスに関する偽りの誓いをする。 その一方で、どこかの地域で無実のイスラエル人が爆弾で吹き飛ばされたり、パレスチナ人がイスラエルの占領軍に射殺されているのである。 とりわけ権力欲に憑かれた2人の指導者アリエル・シャロンとヤシル・アラファトは、彼らの無責任な行動と行為により、平和という概念が全く空疎なものに成り下がることに貢献している。 これら堕落した二人の輩はしょっちゅう和平交渉、和平計画、和平の道、和平会談、ロードマップなどという言葉を口に出す。 しかし彼らはただの一度も、誠実で平和的な意図で和解交渉に臨むことができない。 テロや破壊を行い、人間の生命を滅ぼし、何にも増して人間の共存の基礎をなしているあらゆる価値を軽蔑する彼らの政策は、彼ら二人をテロと誇大妄想の従者にした。この悲しむべき二人の政治家に由来する歴史的、人間的な狂信、そして彼らが撒き散らす憎しみと不和は、その振る舞いとそこから生じる結果により、世界平和や多くの地球人の真の人間性を実現することがいかに困難であるかを物語る最良の例である。 両陣営の国民の中には十分な理性と分別を備えた人間がいて、平和を通してのみ共通の未来が生まれるということを知っている。 両陣営の国民の大部分は平和を望み、妥協する用意がある。 しかし戦争遂行者や戦争扇動者たち、平和をテロによって達成できると思い込んでいるすべての愚か者や変質者は、実際にはすべての和平プロセスを妨げ、これに関するすべての端緒をいつも芽のうちに摘んでしまうのである。 これらの時流に遅れた変質者たちは、自分たちの地域の人間に何をしでかしているか、また地球の全人類にどんな災厄をもたらしているか、そして彼らの憎しみと妬み、テロと永遠の紛争によって何を引き起こしているか全くわかっていない。 これら両陣営が対立して破壊を繰り返している間は、地球に世界平和が訪れることは決してないだろう。 両陣営も、堕落者にたぶらかされている国連も、真の平和によって地球人の存続を確保するために、新たに本当に誠実で平和な道を進むことが求められている。 何よりもアメリカ政府とその共犯者の破壊的な策謀に引き起こされて、世界的な規模での軍事的な紛争、すなわち第三次世界大戦が起こるとすれば、その発端は中東にあると想定してよい。 この状態に対して主たる責任のある両陣営の政治家は、その犯罪的な行為のために解任され、生涯社会から追放されて、彼らの残りの人生にわたり病的で尊大で誇大妄想的な行為の責任を取らされてしかるべきである。 これよりはるかにひどいのは、他国の問題に絶えず干渉する政策によって主たる責めを負うべきアメリカ合衆国の極めてさまざまな行政機関である。 非人間的な大量虐殺や拷問、アメリカ軍の良心のない堕落した分子によって捕虜に加えられる臆面もないあらゆる性的虐待も身の毛がよだつ。 しかもそれはイラクやアフガニスタンだけでなく、至る所でアメリカの男女の兵士が恥ずべき残忍な所業を行っているのである。 だがこれは今日アメリカ軍のいろいろな分子の間で慣行となっているだけでなく、ずっと昔、インディアンが多くのアメリカ市民やアメリカ軍によって虐殺、凌辱され、死に至るまで拷問されことに始まり、ベトナム戦争に至るまでずっと続いていたのだ。 これについてはソンミ村の大虐殺や、アメリカ軍の兵士によるその他すべての堕落を思い起こすだけでよい。 同様のことは世界中で起きている数多くの紛争や、第三次世界大戦の危機に対するアメリカの決定的な罪についても言える。国民自身が犯罪的な国家権力者とその同調者を解任し、彼らの取り巻きと一緒に終身追放に処するほど賢明ではなく、責任感に欠けるならば、本当に第三次世界大戦が起きるだろう。 そしてそれは影響の点でこれまでのすべての戦争を陵駕するだろう。 特に最近数十年間のアメリカ政府の策謀とパワーポリティクスおよびその政策は、世界中のすべての人間や国の負担と、人間のあらゆる権利と義務および人間の尊厳の蔑視に基づいて、常にアメリカの利益だけを優先してきたが、それは全人類および惑星に大きな損害をもたらした。 アメリカという国は、遠い未来に至るまで惑星地球を平和にする能力も意志もない。 なぜならばそれに必要な責任感が完全に欠落しているからであり、またアメリカは破廉恥にも惑星全体をそのすべての資源もろともせしめようとしているからである。 その際に世界の半分が破壊され、数百万の人間の命が奪われることは、犯罪的な責任者にとってどうでもいいことである。 それは国民の中の愚かなシンパにとっても同様であり、彼らの責任感も全く取るに足りないものである。アメリカは軍事、テクノロジー、経済ではトップに立っていようとも、道徳、倫理および人間関係では第三世界の基本的な価値や理想にはるかに劣っている。アメリカ人の大部分、広範な大衆は、影響を受けやすく、操作しやすい。 なぜならば、彼らの意識は権力と金と消費に向けられているからである。 人間の基礎をなす基本的な価値は完全に欠落している。この国は世界警察を気取り、民主主義の極めてさまざまな基本的な価値(疑わしい民主主義、偽りの自由および偽善的な平和の叫びと結び付いている)に肩入れするかのような印象を与えることには成功したが、それは見せかけだけのとんでもないものである。 他の国々の利益は常にアメリカの利益に道を譲り、それを貫徹するためには残酷な暴力のいかなる邪悪で堕落した手段も厭わないのである。 アメリカは戦争を扇動し、独裁政治を支持し、ありとあらゆる政府や人間を互いに争わせては、自分の目標を達成して自分自身の利益を実現する。 この世界で憎しみや不和や嫉妬を煽り、そして自分自身の政治的、経済的目標に適っているならば、独裁者を助長するためにどんな手段でも使う。厳しくも明確な言葉で表すならば、それは反米主義とは何の関係もない事実であり、政治の現実である。事実、それらは毎日のように観察できる。 世界中で独裁的な手段とテロと暴力によって進んで実行される虚偽、不遜、権力欲は、アメリカをヨーロッパが早急に離反すべき国としている。 この離反が絶対に必要であるのは、アメリカの政治的、経済的利益が、他国の利益も考慮し、また他国を同等のパートナーとして認めることから遠く掛け離れているからである。 世界的な共同体が可能であるためには、すべての関係者は平等でなければならない。 しかしそれはアメリカの政策で常々体験できるように、思考と行動が許さない。 アメリカは自分をそれ以外の世界のすべての国や人間よりも善いもの、価値の高いものと見なし、みずから賛美する。 このような考え方は、真実を認識した立派なアメリカ人が、この国に建国以来つきまとっている愛国主義と利己主義の海で彼らの声を発し、反対することをほとんど不可能にしている。 だが、それも無理もなかろう。かつてのヨーロッパからの移民の遠い子孫の一部は、ヨーロッパから建国当時のアメリカ、すなわち無限の可能性を秘めた国へ逃亡したり、当局によって追放されたりしたすべての犯罪者や教派主義者と異ならず、少しも良くなっていないのだから。 柔順なアメリカ合衆国市民の操作しやすさ、多くのアメリカ人が見せる偽りの友情のポーズや完全に誤っている堕落した愛国主義は、合衆国市民の皮相さを表している。 彼らは人生の真実と現実に対する視野を失ったか、一度も体得したことがなく、すべての思考と感情そのものが嘘と欺瞞で濁っている。 そしてこれに属するアメリカ市民は、アメリカ合衆国の政府、諜報機関および軍隊とあいまって、地球と全人類に対する脅威を意味する。 アメリカ合衆国の対外政策の結果はすべて、テロ、破壊、操作、諜報活動、陰謀からなる際限のない災いをもたらし、世界をいっそう不安定にしている。 それは今後も著しくその度を増し、全人類に最悪の結果をもたらすであろう。 しかし、ついにアメリカ市民の大多数が良い方向に変わらなければ、堕落したアメリカ合衆国のあらゆる犯罪的で無責任で人間に相応しくない策謀から身を守り、こうした一切の害悪を全く変えられないことを恥じる合衆国市民は、遺憾にも少数派になってしまうだろう。 アメリカ合衆国は他人に禁じている武器を所有する権利はない。 理由や動機が何であれ、民主主義、自由、平和、愛、調和、神託、テロリズムとの戦いなどの名目で、他国に戦争やテロを仕掛ける権利はない。 価値の基準、世界警察、そして誇大妄想的な超大国を気取って、その完全に変質した価値や生命の基準を他人に押し付ける権利はない。 アメリカがこのような道を取って進み続ける限り、恒久的な真の平和と実質的な自由に到達することは決してできない。 世界共同体はついに、アメリカの出過ぎた振る舞いをたしなめ、アメリカと対峙するために必要なステップを踏むことが必要である。 それと同時に、アメリカの政治、軍事、諜報、経済、教派の勢力は、地球のすべての国から撤退しなければならない。 アメリカが他国の内政に再び干渉してはならないことは言うまでもない。 アメリカの超大国政策を早急に抑えなければならない。 さもなくば、あらゆる害悪の中でも組織された国際テロリズムは決して終焉を迎えることはなく、最近世界中で起き、現在も続いているテロよりさらに何倍も悪くなるだろう。 何百年も前から、恐らくは人類が誕生して以来、繰り返し体験してきたように、さまざまな徒党、国民や政府の堕落した誇大妄想的な指導者は、その政体が民主的であるか、独裁的であるか、宗教的であるかを問わず、彼らの嘘と権力欲と病的な考え方により、何百万人もの人間の死に対して責任があったし、これからもそうであろう。 昔から、尊大で良心のない国家権力者は自分たちの個人的な利益のために、自国民を偽りの約束や、虚偽の主張や、陰謀と嘘で再三再四他国にたきつけてきた。 大部分の聴衆は、憎しみや復讐や報復欲の熱狂と、国家権力者や戦争を煽る連中による戦争の雄叫びによって催眠状態に引き入れられ、自分自身で事実について検討したり、指導者の誇大妄想について熟考することはない。 真実を認識する者は常に少数派であって、人々は彼らの呼びかけを戦争の雄叫びの中でもはや聞き取ることはできないか、あっさり聞き流してしまうのである。 国家権力者やテロリストどもにとって、戦争やテロ行為のために巨額の金を浪費するのはたやすいことである。 しかし納税者はそれを稼ぐために大変な苦労をしなければならない。さらにまた暗示力を持った無責任な輩にとって、不安定な人間を操作するのもたやすいことである。 それらの人間は愚かで無知なために本当に事実について考えを巡らすことができないのである。 彼らはまるで犬のような卑屈さで不誠実な誘惑者の後を這いずり、その臭いおならにうっとりするのである。 実に、犯罪的な連中の靴をなめるのは、自分の靴をピカピカに磨いて颯爽と歩くことよりも簡単なのである。 また、戦争を阻止し、妥協を見いだして真の平和に達することに全力を尽くす代わりに、戦争を煽る方が簡単である。 全く同様に、人間に必要な尊敬と畏敬の念を払い、人間の命を大事にするよりも、兵器の威力ですべてを破壊し、人命を奪う方が簡単である。 地球人は平和と自由の名で戦争を行っている。数千年間戦争に明け暮れた後でも、地球人の歴史が証明しているように、戦争とテロは決して平和と自由を、同様にまた愛と調和をもたらし得ないということが認識されなかったのである。 すべての国民は、他国を戦争に巻き込む指導者を、いかにその理由がもっともらしいものであっても直ちに解任して、永久に社会から締め出し、二度と再び社会に戻って来られないようにすべきである。 人類がその惑星でついに真の平和と自由を作り上げ、見いだすことができるように、ブッシュ商会、ブレア、シャロン、アラファト、フセイン、そして今も将来も堕落した人間どもと称され、常に争いや戦争やテロに責任のある連中は皆追放されてしかるべきである。 しかし、あらゆる民族の人間が、これらすべての権力に憑かれた誇大妄想的な大量殺人者に統治させている限り、不和と戦争は絶えることなく、人間は平和な共存からますます遠ざかるだろう。 こうした戦争や不和の張本人は、いつもすべての問題を暴力によって強引に解決しようとし、それにより世界に混沌を生み出し続けているが、地球の人間がこうした連中から解放されて初めて、国際的な和平プロセスを始めることができるのである。 しかしそれが始まるためには、何よりもすべての人間が自分自身と取り組み、自分の人生がお上によって決定され強制されるだけでなく、およそ平和共存が可能となるのに必要な責任を進んで引き受けることが必要である。 ヨーロッパ、近東、アメリカ合衆国、あるいは世界のどこに住んでいようとも、個々人が人間として求められているのである。 真の平和は、人間が次のことを認識し、学ぶことによってのみ達成できる。 すなわち、人間は思考と感情により、尊敬と畏敬と尊厳により、そして寛容によって自分自身の中に平和を作り出し、次にそれを手本となるように同胞に示し、他の人間がそれに倣って身を正すようになることである。 つまり平和は内的なプロセスによって作られ、最終的に実現されなければならない。 考え方が堕落した支離滅裂な宗教的狂信者、すべての宗教家、誇大妄想で無責任なすべての政治家や独裁者は、人間が人間に対してどのような責任を担い、果たすべきかを知っている人々に取って代わられなければならない。 このプロセスに何らかの良いもの、肯定的なものをもたらすのは、宗教でもなければ政治でもなく、ましてや軍隊や諜報機関や教派でもない。 それは、自らの内に平和への願望を生み出し、それを自分の人生の意識された部分としなければならない個々の人間なのである。 このような意識的なプロセスによってのみ、すなわち平和のために何事かをなし、平和をもはや意味のない決まり文句に貶めないという決意によってのみ、いつしかすべての人間が平和な世界的共同体に参入することが根本的に可能なのである。 人間の憎しみは、ユーゴスラビアであろうと近東であろうと、和平を当てにして軍隊を派遣したり、安全のためにフェンスや境界を敷設することによって克服できるものではない。 憎しみを克服できるのは、邪悪な過去はそのままにしておいて、現在と、そしてより良い未来と取り組むことによってのみである。 過去の過ちから学び、それによって得た認識を現在と未来に取り入れることはできるが、すでに起きてしまったことは変えようがなく、後戻りさせることもできない。 それゆえ、いわゆる過去の克服という偽った意図で、過去の犯罪や、起きてしまった人間の堕落行為、たとえば過去の戦争、独裁、破壊、拷問、その他あらゆる種類の残虐行為をいつまでもつつき回すのは無意味で、とんでもなく馬鹿げたことなのである。 それが役に立たないのは、実際にはそうした誤った行動は、一方ではますます新たな憎しみと復讐欲を生み出し、他方ではこの浅はかな行いにより、かつて罪を犯した人間の無実、無関係の子孫の中にひどい良心の呵責と罪悪感が生まれ、しかもそれは狂気に至る恐れがあるからだ。 事実、罪ある者の子孫は無実であり、いかなる形においても自分が犯していない犯行の責任を問われてはならない。 もちろん過去の残虐行為や歴史上の出来事は忘れてはならないが、それらは過去に属することであり、回想行為や式典などによって未来に持ち込んではならない。 だが、地球人はこれを記念日や記念式典などの形で行い、それによってすべての残酷な過去を繰り返し記憶に呼び出しては熱くしているのである。 しかしすでに言ったように、それは一方では憎しみや復讐の考え、さらには罪悪感を生み、他方では惑わされた者は、かつて罪ある者がしたのと同じように行動するよう鼓舞されるのだ。 邪悪な出来事、残虐行為、暴力的犯罪、非人間的行為、その他あらゆる種類の堕落は、人間や民族や国家の歴史全体から見ればほんの小さな部分にすぎない。 だがそれらを記念式典などで繰り返し記憶に蘇らせることは、多くの人間の中に良心の呵責、恥と罪悪感、憎しみと憤り、あるいは残虐行為の模倣を生みだす効果しかもたらさない。 だが、それは決してすべての当事者の発達を促進するものではなく、絶対に阻害するものである。 要は過去を否定したり、忘れたりするのではなく、前方へ、未来へ目を向けることである。 しかしそれは、常に後ろ向きで、過去をひっかき回すならば、決して可能ではないだろう。 というのは、過去の残虐行為や犯罪や非人間的な行為を永久に引っ張り出すことによって、思考と感情に罪が生じるだけでなく、上述したように憤りや憎しみや野蛮な情動も生まれ、破壊や殺人や殺害につながるからだ。 地球人はいつまでも残酷な過去に固執していては、内面の平和、個人の平和、そして世界の平和に近づくことはできない。 彼らはおそらく、人間が互いに過去の歴史における堕落や戦争や破滅を咎め合い、昔の残酷な歴史を蒸し返しているのだということを認識できまい。 そして人類は必ず視線を前方へ、未来に向ける場合のみ未来を持つということも認識できまい。 まさにここで問われるのは、国家権力や独裁権力、そして宗教や狂信主義やテロリズムの勢力に属する破壊者や無責任な人間、人殺しや犯罪者、そして大量殺人者がとうの昔に犯した残酷行為を、記念式典によっていつも新たに蒸し返しては、新しい害悪を呼び出している愚かさと無知がまだどのくらい続くのかということである。 とりわけヨーロッパは地球全体の平和に新しい意味と次元を付与する潜在的な力を持っていると言ってよい。 だがそれは残念なことに、自国の利益を他国の利益に優先させる、頭のいかれた個々の政治家のために水泡に帰している。 彼らは宗教的、歴史的理由から、あるいはしばしば彼ら自身がおっぱじめる自国を巻き込んだ土地争いのために、自分たちの利益を前面に押し出さなければならないと考えている。 これらの度し難い政治的、宗教的な馬鹿者と利己主義者、自分の行動のためにやたらと神をかつぎ出しては神に誓いを立て(ついでに自国の憲法にも誓う)永遠に時代遅れの連中は、今日まで人間に相応しくない歴史から何一つ学ぶことはなかった。 こうした政治屋がどれほど久しくヨーロッパのすべての政府に巣くい、万人が一体となって共同の力を発揮し、平和な共同体を実現するのを不可能にしてきたことか。 ヨーロッパではすべての国家がEUに加盟し、あるいは加盟国であることから利益を得ようとするばかりで、自分から何かを与える気は全然ない。 これら寄食者どもはEUの共同体において失うものは何もなかった。EUそれ自体が懐疑的で独裁的であり、ほとんどすべての国家権力者がやっているのと同じように権力の網を張り巡らせている。 ヨーロッパの国家はすべて、欧州連合の利益と加盟国を代表し、その一員になるか、あるいは全面的にボイコットされるかのいずれかを自ら決定しなければならない。 他方、欧州諸国はアメリカの政治のシンパとなり、世界中で国家によってテロが行われている所にしがみついている。 こうした影響力はすでにNATOにも及び、NATOに加盟する国々の軍事力が戦争に使われた結果、邪悪な暴力が蔓延しているのである。 しかしこれら一切のことは、たとえ人間というものは常にすべてを手に入れようとする傾向があるものだとしても許されるものではない。 現在まさに、ヨーロッパが必要な責任を引き受け、ついにアメリカに対して不可欠な対極を構築し、そして合衆国政府機関によって永久に戦争を遂行し、絶えず地球上に不和を引き起こしている、この道徳的に非人間的な国から完全に独立すべき時である。 このことはEUにも言えよう。EUは本来アメリカ合衆国の戦争の策動と世界支配の努力から身を守るべきである。 だが、EU加盟国の責任者とその同調者は実際は何をやっているか。彼らは他人の国で戦争しているアメリカ軍を助けるために自分たちの兵力を派遣しているのである。 もちろん、アメリカの責任者とその熱狂的な賛同者の、すべては平和と自由、そして国際テロの撲滅のためであるという嘘を真に受けてのことである。 しかし自称テロの撲滅者により最悪のテロや拷問、殺人、殺害が行われているということについては、故意に黙っている。 いまや、ヨーロッパは真の平和と真の自由が生まれるような枠組みにおいて、独自の軍事同盟を築くときである。 だがそれは、アメリカが常に最高司令部を握っているNATOのしがらみから、ヨーロッパが自由にならなければならないことを意味する。 世界に平和と自由を促進し、それらを世に広めることは、ヨーロッパの義務であり、使命である。だがそれは、今日存在しているEUの枠内では決して起こり得ない。 EUは現在、その馬鹿げた法律や禁止条項や条約と、EU自体に納める法外な負担金によって、全加盟国の市民を苦しめている。 しかしこれもまた、ヨーロッパがアメリカから解放されない間は、起こり得ないのである。 本当は今日、地球の人類は非常に未来に希望の持てるエポックに生きており、非常に多くのことについて意識的になっている。 多くの地球人はもはや罪ある上層部の人間や国家権力者によって言いくるめられることなく、責任を引き受けている。 なぜならば、彼らは独自の世界像と見通しを獲得しているからである。 しかも自己責任を全面的に働かせ、すべての人間の真の平和と、実質的な自由のためにあらゆる最良のことをなそうとする。 これはすべての戦争扇動者と戦争遂行者が地盤を固めるのを難しくするだろう。 ヨーロッパの大部分が戦争から自由になったとき、世界中もそうなるはずだ。現在、ほとんどの紛争はヨーロッパ以外の地域で起きているが、もしアメリカが戦争やテロを遂行している危機地域にEU加盟国が軍隊を派遣して、引き続きアメリカを支援するならば、その状況はすぐに変わるだろう。 ヨーロッパでまだ見られる一部の分別ある国民の進化段階は、たとえば最初の端緒に過ぎなくとも、ついに可能な平和と本当の自由の前提を作り出し、宗教を捨てることによって、地球上にある数多くの紛争の主要な原因を封じ込めることができる。 それはまだ少数派で、大きな力は持っていないが、この少数派が成長すれば、人間を苦しめて死と困窮と悲惨に追いやる犯罪的な国家権力者や宗教家は、ある日いなくなるであろう。 今日の時代にあっては、生命の脈絡を非常に詳細に説き明かす豊富な科学的認識と、理性および悟性と、そして生命の真の法則に関する不可欠の熟考により、ついに進化の道を、平和と自由への道を歩むことが可能なのである。 故郷の惑星である地球の住人として、数十年来実に様々な世界の紛争をその外部の安全なヨーロッパから眺めている人間として、人間がなんらかの誤った歴史的な理由から互いに戦争を仕掛け、虐殺し、憎み合い、追放するのを体験しなければならないのは悲劇である。 しかもそれが、『聖書』(それ自体が完全に偽造され、でっちあげられたユダヤの年代記に過ぎない)と呼ばれる書物や、その他雑多な宗教的資料に基づく偽りの歴史の結果であることも稀ではない。 幾人かの独裁者や民主的に選ばれた政治家や国家権力者が、今日なお数百万もの人間の死に対して責任があるのを体験することも同様であるが、残念なことにこれは日常茶飯に行われている。 彼らは一様に平和と自由に関心があると称している。 だが、本当に平和を希求しているのは国家権力者ではなく、何よりも大多数の国民なのである。 そもそも通常の理解力と健全な理性を備えた、誠実で分別ある人間が、他人の殺害やテロに興味を持つというようなことがあるだろうか。 しかし無責任で傲岸不遜、犯罪的で恥知らずの国民指導者は、自分たちの権力に取り憑かれているので、真の平和と本当の自由を許さない。 万人が人間として、個人として、不可欠の勇気を奮い起こして、必要な責任感と、そしてまた真に世界的な平和と本当の自由を追求することに対する明確な意識を育むことが求められている。 これは政治や宗教などによっては起こり得ず、ひとえに個々の人間自身の個人的な努力によってのみ可能である。 すなわち自分の責任を自覚しているすべての人間は、平和と自由に対する闘いを開始して、世界をより善いものに変え、人間のもとに愛と調和が支配する未来を生み出すことが求められているのである。 草案:ギュンター・ノイゲバウアー、2004年2月 / 推敲:ビリー 第358回コンタクト(2004年5月6日) プターとの会見 ビリー 次にギュンターと私が書いた記事に関連することを取り上げたい。これについていま私がなおも言いたいのは、イラクでアメリカとイギリスの占領軍が、無力で無実のイラクの男や女や子供に対して加えている性的虐待や拷問や殺人に関して、とうとう公に暴露されたことである。 これについて私は、性的虐待も最も卑劣な形式の拷問だと言いたい。そして、そのような堕落行為は昔からあらゆる戦争や類似の出来事で普通に行われたということも言っておかなければならない。 すなわち、アフガニスタン、ベトナム、朝鮮、第一次大戦と第二次大戦、そして世界中のその他の戦争地域でも行われたのである。それは今日まで続いているが、これまではすべて黙殺され、解明されることがなかった。 私自身もそのような残虐行為を何度か目撃しているので、そうした堕落行為が繰り返し起こるということを誓って保証できる。これに対して主たる責任のある上層部および最上層部の国家犯罪者は、全部の事情を知っているに違いない。 だが、彼らは国民に良く見られ、役職を失わないようにするために、すべて否認し、知らないと言い張る。捕虜や自由な市民を苦しめ情報を絞り出すために、彼ら自身が暴力措置を指示するのが普通である。そして国家権力者の手先や拷問吏があらゆる暴力、非人間的で卑劣な行為、そして殺人的な拷問や方法を用いるのは、彼らの野蛮と腐敗の結果に過ぎないのである。 このような事実に基づき、いかにイスラム教徒の女や子供や男に例を見ない屈辱が加えられたかを、イラクで起きた拷問と殺人と凌辱の写真が示している。女や男や子供が裸になることを強制され、その状態で辱められ、性的に虐待され、強姦され、殺されたのである。 彼らは体と体を鎖でつなぎ合わされたり、犬のように首を綱で縛られて床を引きずり回されたり、性的な変態行為や自慰を強いられたりした揚げ句、最後には自分自身の血と尿と糞にまみれたのである。また別の人々はひたすら死ぬほど殴られ、あるいは踏み付けられたり、電気ショックによって拷問されたり、惨めに虐殺されたりした。それと全く同じことが昔から戦争や革命で当たり前に行われ、すべてが黙殺されたのである。 だが今回なんらかの事情により、残虐行為の一部が公となった。しかし、それですべてが終わりというわけではない。事実、すべてのことが瑣末なことのように扱われ、発覚した拷問や凌辱や殺人などは、ごく少数の例外的なケースであり、組織的に行われたものではないかのように言い繕われている。だがこれらすべての堕落や残虐行為は、昔からずっとそうであるように、占領軍が意図的に指示した日常茶飯事に属しているのだ。たしかにいつの時代もそうした堕落した出来事は完全に黙殺されてきたが、にもかかわらずそれらはいつの時代も行われてきたのである。そして殺され、凌辱され、拷問され、裸や性行為を強いられた男女のイスラム教徒について言うと、こうしたすべてのことをイスラム教徒に行った汚れた豚や悪魔のような連中は、これらの人々に対しておよそ考えられる最悪のこと、すなわち女や男や子供たちを、異性の前で素っ裸にして辱めるということをしでかしたのである。 イスラム教徒が女性の下着を頭にかぶせられたり、女が男の下着を身につけさせられたりすることは、彼らにとって言いようのない恐るべき恥である。自慰を強いられたり、素っ裸にされたり、互いに性行為を強要されたりすることも同様である。拷問をするろくでなしは、アメリカ人、イギリス人、その他いかなる国の人間であろうが、その呪うべき不遜と傲慢、非人間性と無責任、殺人と拷問の欲望、血と権力の陶酔、憎悪、そして考えられる限りの野蛮と堕落において、自分たちがイスラム教徒に対して何をしたか、そして何をし続けているか決して把握できないのだ。これらの汚れた豚のようなろくでなしは、あまりに低級で愚かなために、真に人間的で尊厳に満ちた思考をほんのわずかでも抱くことができない。 もちろん軍隊全体がそんな風に堕落するわけではないということは言っておこう。だが、どんな軍隊にもそうした連中は大勢いる。正規軍の兵士であれ、軍隊ではないが組織されたテロリストであれ、えせ革命家であれ、政治的狂信者や宗教的狂信者であれ、あるいは傭兵やそういう類いのならず者であれ、まったく同じである。いかなる形、いかなる関連における拷問も、破廉恥な輩による果てしない堕落を意味する。それは無力な人間に対する犯罪であり、その人間の尊厳を奪う行為である。拷問はいかなる形においても、いかなる関連においても絶対に正当化されないのだ。 プター 君が語ったことは、それ以上の説明を要しない。実際、記事と合わせて、すべてのことが語られた。したがって、君はすべてのことを事実あるがままに語ったとコメントするにとどめよう。これ以上の言葉は余計だ。 003 Wissen und Weisheit aus der Geisteslehre 霊の教えからの知識と知恵 Billy (WZ Nr.114) ビリー(WZ 114号) Seit urdenklichen Zeiten haben Wissen und Weisheit aus der Geisteslehre einen ganz entscheidenden Einfluss auf die Kulturen aller Voelker ausgeuebt. 原思考的時代以来、霊の教えからの知識と知恵はすべての民族の文化に極めて重大な影響を与えました。 Dies ist nicht verwunderlich, denn brachten und bringen das Wissen und die Weisheit der Geisteslehre dem Menschen doch Erkenntnisse und Kenntnisse um das Wirken der schoepferisch - natuerlichen Gesetze und Gebote und um das Leben und dessen Fuehrung selbst. これは驚くことでは有りません。なぜなら、霊の教えの知識と知恵は、創造の-自然の法則と掟の働きについて、また人生と人生へのガイダンスの知識と知恵を人々にもたらしたし、今ももたらしているからです。 Und da der Mensch immer auf der Suche nach der Wahrheit und im Streben nach Evolution sowie auf der Suche nach seinem Ursprung und Lebenssinn ist, bieten ihm das Wissen und die Weisheit der Geisteslehre all jene Moeglichkeiten und jenen Stoff, die ihm erforderlich sind, alle Fragen zu beantworten und bestehende Zweifel zu beseitigen. そこでは、人々は自分の起源や人生の意味を探求するのはもとより、真理の理解と進化の努力を常にしており、霊の教えからの知識と知恵は、すべての疑問への回答を与え、存在する疑いを消し去るのに必要なすべての能力と物質を与えてくれるのです。 So bieten das Wissen und die Weisheit der Geisteslehre auf der suche nach den eigentlichen Wurzeln des menschlichen Seins immer auch die Moeglichkeit der Erkenntnissen in bezug auf die kausale Realitaet des Lebens selbst. このように、霊の教えからの知識と知恵は、人という存在の実際のルーツを捜し求めるために、常に生命そのものの原因となる実在に関する認識の能力をも提供しているのです。 Dies entspricht ganz dem Verlangen und Streben des Menschen nach hoeheren Erkenntnissen und dem Verstehen aller Dinge. このことは、人がすべてのものについて、より高い認識と理解を求め努力することと完全に応じます。 Das Verlangen nach Erkenntnis aber entspricht dem Panorama einer vom Bewusstsein sowie von der Intelligenz und dem Leben selbst angestrebten und gefuehrten Evolution, der sich letzlich kein Mensch zu entziehen vermag, und zwar auch dann nicht, wenn in einem Leben order gar bei mehreren Wiedergeburten eine kuerzere oder laengere Stagnation eintritt. しかし、認識の要求は、知識と生命そのものの望ましい進化に導くのはもとより、意識の全景に応じます。その進化は、それから長いこと経って、人々はもはやそれを抽出できなくなり、ある人生で、或いはいくつかの生まれ代わりまでの、短いか長いかの停滞が起こっています。 Sowohl in alter wie auch in neuer Zeit kam und kommt zwischen Naturerkenntnis und moderner Forschung dem Wissen und der Weisheit der Geisteslehre eine grosse und ueberragende Rolle zu, denn sie bilden die Quelle fuer profounde Erkenntnisse, die die Zusammenhaenge und Gesetzmaessigkeiten schoepferische - natuerlicher Ur-kraft und Wirkungskraft offenbaren. 古い時代と新しい時代の両方で、自然認識と霊の教えの知識と知恵に、近代的な研究の間で偉大で最高の役割がやってきたし、やってきている。何故なら、それらが、創造の-自然の原初の力と効力の関係と規則性を明らかにするような、深遠な認識の源泉を創るからです。 So zeigen sie also auch alle Dinge auf, die das gesamte Leben und die wechselseitigen Moeglichkeiten und Verbindungen zwischen dem Bewusstsein und dem Geist sowie zwischen dem Koerper und der Psyche bestimmen. このように、それらはまた、全人生、肉体とプシケーの間はもとより、意識と霊との間の相互間の可能性と関係を決定するすべての物事を明確に示します。 Dabei sind alle Aussagen und Erklaerungen sowie alle Gesetze und Gebote schoepferische - natuerlicher Form, wie sie durch das Wissen und die Weisheit der Geisteslehre beschrieben werden, keineswegs fuer den Menschen unverstaendilich, futuristisch oder gar spekulativ,noch werden durch sie zu bereits bestehenden Theorien neue hinzugefuegt. それについて、創造の-自然の形でのすべての法則と掟はもとより、すべての声明や説明があります。それらは霊の教えの知識と知恵を通して述べられ、人にとってはぜんぜん理解できないし、未来的に、推論的に、それから、既に現存するものに更に新しい理論を付け加えられるものなどではありません。 Nachweisbar naemlich gruenden sie auf effectiven Tatsachen und bestehendenschoepfrisch - natuerlichen Gesetzen und Geboten, die naturgesetzmaessig nachvollziebar sind und seit urdenklichen Zeiten, ja seit der Entstehung des Universums existieren und sowohl in nacher wie auch in fernster Zukunft unveraenderbar bestehen bleiben, folglich kein Mensch daran zu ruetteln vermag, auch wenn er noch so wissend und koennend sein sollte. 明白に、つまり、それらは実質的な事実と、現存する創造の-自然の法則と掟に基づいて創られており、自然法則通りに理解されており、それらは原初思考の時代以来、宇宙出現以来存在し、近い未来と遠い未来の両方で、変らずに存在しつづけ、それ故に人は誰もそれについて知り理解するべきだとしても、それに触ることは出来ません。 Die schoepferische-natuerlichen Gesetze und Gebote lassen sich durch keinerlei Maechte und Manipulationen des Menschen veraendern oder in ihrer Wirksamkeit einstellen. 創造の-自然の法則と掟は、人のどんな力や操作によっても変えられず、その効力を調節されることもありえません。 Auch das geht aus dem Wissen und der Weisheit der Geisteslehre hervor. それは霊の教えの知識と知恵から出てくるものです。 Wenn man die Geschichte der Menschheit zurueckverfolgt, und zwar sowohl die irdische wie auch die unendlich weite universeller Form - wenn der Erdenmensch dazu ueberhaupt in der Lage ist - , dann finden sich unzaehlbare Beweise dafuer, dass zu allen Zeiten ihr Siegel aufgepraegt haben. もし、人が人類の歴史を、地球の、及び無限に広がる宇宙での両方で - 地球人類がその様な事情になったとして - 溯ってみれば、その時、すべての時代で、それらの印が押された事実の無数の証明があります。 Und vergleicht und ueberdenkt man ihre Siegel, die Informationen und Erkenntnisse, die Botschaften, Ideen und Gedankengaenge, dann stellt man fasziniert fest, dass ihre Aussagen und Erklaerungen und Lehren in bezug auf die grossen Lebensfragen in ihrem Kern essentiell die gleichen sind. 人がその印を、その情報と認識、メッセージ、考えや思考過程を比較し考えてみれば、その声明と説明と教えとが、その中心にある大きな人生への質問に関して、本質的に同じものであることに固く魅了されます。 Natuerlich ist darum herum viel Unsinniges zu finden, das mit der Wirklichkeit nicht uebereinstimmt, doch liegt der Grund dafuer oft nur im Unverstehen der Wirklichkeit , oder - was vielfach der Fall ist - die Ueberlieferungen sind unkorrekt, weil die Chronisten usw., alles einfach nach ihrem eigenen und unzulaenglichen Verstehen inetrpretierten. ですから、それから、真実と一致しないが、しかし、その理由が真実の無理解にしばしば原因があるとか、-それらの複合のケースとか-または年代記作者等がすべてを自分自身の不十分な理解で解釈したせいで、伝承が正しくないなど、多くの不合理なものが見つかるのは当然です。 Die grundlegenden Werte jedoch, die Essenz der Lehre, schimmern und draengen trotzdem immer wieder durch. しかしながら、それにも係わらず、基本的な価値、教えの本質は、繰り返して、微かに光り、力説しています。 Und gerade hierin liegt der unumstoessliche Beweis dafuer, dass die fundamentale Quelle des Wissens und der Weisheit der Geisteslehre vorhanden ist, und zwar seit alters her. そして、まさしく、霊の教えの知識と知恵の本質的な源泉がはるかにな昔から現在もあるという、これについての反駆できない証拠があります。 Doch die eigentliche Quelle des Wissens und der Weisheit der Geisteslehre entspringt aus den schoepferische-natuerlichen Gesetzen und Geboten, die zu allen Zeiten von evolutionsstrebsamen grossen Menschen studiert und entschluesselt wurden. 霊の教えの知識と知恵の実際の源泉は、すべての時代に、偉大な人々が進化の努力によって学んで解明した、創造の-自然の法則と掟から生じています。 Und diese schoepferisch-nauerlichen Gesetze und Gebote sind es wahrheitlich, die allen Ursprung in sich bergen, und zwar sowohl das Wissen, die Zusammenhaenge und die Gesetzmaessigkeiten der Mysterien des Lebens und des Todes und der Wiedergeburt und Evolution. そして、この創造の-自然の法則と掟は、まことに、その中に含むすべての源泉、生と死、そして生まれ代わりと進化のミステリの知識と関係と規則性であるのです。 Und das daraus resultierende Wissen und die Weisheit, die durch die Geisteslehre wiedergegeben werden, haben fuer das Denken und Handeln des Menschen ungeheuer weitreichende Konsequenzen. そして、霊の教えによって示されている知識と知恵は、人の思考と処置のために、ものすごく広範囲な帰結をもっています。 Folgt der Mensch in seinem Denken und Handeln jedoch falschen Ansaetzen, dann schafft er sich mancherlei Uebel und vermag die Wahrheit des Wissens und der Weisheit der Geisteslehre nicht zu folgen. もし、人が考えや処置の間違った端緒を後追していくと、その時には彼は色々な災いを創り出し、霊の教えの知識と知恵の真実に従うことが出来ません。 Folgt er jedoch der Wahrheit sowie dem Wissen und der Weisheit, dann erfuellen sich wunderbare Hoffnungen, die trotz vieler Wiederwaertigkeiten stets eine gute Zukunft bereiten. もし、彼が真理に、知識と知恵に従うならば、多くの繰り返しにもかかわらず、良い未来をつねに用意する素晴らしい希望に満たされます。 Doch um in der Hoffnung Erfuellung zu finden, muss etwas getan werden, denn Erfolg und Fortschritte kommen nicht von ungefaehr, sondern nur, wenn man daran und dafuer arbeitet - wenn man die Zusammenhaenge erkennt und die Gesetzmaessigkeiten erfuellt, wie diese durch das Wissen und die Weisheit der Geisteslehre kundgetan werden. しかし、希望の満たしの中で発見するためには、何かを成さねばなりません。何故なら、成功と進歩はおおよそなんてものからはこないのであり、ただ人がその為に働くならば、-それが霊の教えの知識と知恵を通して明らかにされるように、人が関係を認識し、規則性を満たすならばだからです。 Um strebsam zu lernen, bedarf es eines gewissen Optimismus, wie dies auch in bezug auf jeden zu erreichenden Fortschritt notwendig ist. 学びに良く努力することは、到達しうる各人の進歩に必要であるある種の楽観主義を要求します。 Alles Fortschrittliche, alles Erfolgreiche und alles Wertvolle der Welt stammt nicht von Stuempern, Denk – und Lernfaulen oder von Pessimisten, sondern von Koennern, Denkern,Lernwilligen und von Optimisten. 世界のすべての進歩しているもの、すべての成功しているもの、そしてすべての価値あるものが、下手な仕事から、くさった考えや学びから、或いは悲観論者からやってくるのではなく、良く出来る者、哲学者、学ぶ意志をもつ者、そして楽観主義者からやってきます。 Geburt, Leben und Tod sowie Wiedergeburt wirken in der Endlosigkeit der Allgrosszeit wie ein Majestaetisches Drama, in dem sich alles vergaenglichkeitlos wiederholt. 誕生、生と死、そして生まれ代わりは全大時に渡って、その中ですべてを繰り返される、堂々としたドラマのように、果てしなく作用しています。 Darueber sagen das Wissen und Weisheit der Geisteslehre aus, dass es sich dabei um ein strebsames Evolutionieren des Geistes sowie des Bewusstseins handelt. これについて、霊の教えの知識と知恵は、それは、それによって霊および意識のよく努力する進化の為に重要だと述べています。 Man mag Leben und Tod wie eine Tuere zwischen zwei Raeumen betrachten: Im einen Raum lebt man und im anderen legt man sich zur Ruhe. 人は二つの場所の扉のように、生と死をみなしています: 一つの場所では生きており、もう一つの場所では、休息している。 Sinnbildlich gesehen stellen die beiden Raeume so zwei verschiedene Dimensionen dar, wie dies auch der Fall ist bei Leben und Tod. 比喩的な意味で、二つの場所は二つの異なった次元として述べられており、この場合は、それが生と死です。 Zuerst lebt man im Wohnraum, resp., in der Wirklichkeit, dann oeffnet man die Tuer zum Schlafraum resp., der Tod beendet das Leben, dann betritt man einen anderen Raum resp., eine andere Dimension. 最初、人は住居、もしくは現実に生き、その後、眠りの場所、もしくは人生を終えた死のへの扉を開き、その後、他の場所、もしくは他の次元に入ります。 Auch da jedoch geht das Leben weiter - im Schlafraum im Schlafzustand, in der jeneseitigen dimension des Todes als geistige Energieform resp., als wissenaufschaffende Geistform. しかしながら、生命はそこでもまた続くのです-眠りの場所で、眠った状態で、霊的なエネルギー状態、もしくは知識を高める霊形態として向こう側の死の次元で。 Alles ist, wie wenn eine mystische Tuere geoeffnet und wieder geschlossen wird, wenn man die sichtbare, materrielle Welt betritt oder sie wieder in die unsichtbare, immaterialle verlaesst. すべてはミステリーの扉が開き再び閉じるようなものです。その時、見える、物質の世界に入るのか、或いは再び見えない、非物質の世界へと去るのです。 Das materielle Auge des menschen vermag die aetherischen Schleier nicht zu erkennen oder zu durchblicken, die sich im Jenseitsbereich ausdehnen und sich von der materiellen wirklichkeit abscheiden. 人の物質の眼は、あの世の領域に広がり、物質的な実体から分離している、エーテル(天上)のベールを認識することも見ることも出来ません。 Nichtsdestoweniger jedoch vermag der Mensch zu erfassen, dass es sich dabei um eine Welt handelt, die dem materiellen Bereich weit, sehr weit ueberlegen ist. それにもかかわらず、しかし、人は物質領域を遥かに越えた一つの世界が重要だと捉えることは出来ます。 Und dies vermoegen das Wissen und Weisheit der Geisteslehre erkennend zu vermitteln, wenn man sich strebsam und aufrichtig damit befasst und willig ist zu erkennen, dass das materrielle Leben im allerbesten fall nur gerade eine aeusserstblasse, unzureichende und verzerrete Kopie jenes Lebens ist, das sich in geistigen Gefilden abspielt. そして、もし、人が良く努力して、心からそれに係わり、物質人生が、最も良くても霊的な楽土に起こる人生の、ただまさしく、極端に端っこの、不十分な、歪んだコピーであると理解しようとする意志があれば、霊の教えの知識と知恵がこの認識を得るのを可能にします。 Allein schon diese Tatsache ist mit ein Grund dafuer, sich mit dem Wissen und Weisheit der Geisteslehre zu befassen und sich mit allem auseinanderzusetzen, denn durch das Lernen des Wissens und der Weisheit der Geisteslehre wird ein Fundament erstellt, das alle Zeitalter ueberdauert, ohne dass es dogmatisch oder sonstwie zwingend auf den Menschen einwirkt. しかしながら、この事実は、霊の教えの知識と知恵に係わり、すべてを説き伏せる一つの理由でも有ります。何故なら、霊の知識と知恵を学ぶことによって、人にドグマ的な影響が無く、強制することもなく、すべての時代を越えて残る基礎が用意されるからです。 Ganz im Gegenteil, das Wissen und die Weisheit der Geisteslehre foerdern auch im Menschen Wissen und Weisheit, so aber auch Liebe, Frieden, Freiheit und Harmonie - und es werden erschopfende Antworten auf alle kleien und grossen Lebensfragen gefunden. まったく逆に、霊の教えの知識と知恵は、又、人の中で知識と知恵、それに加えて、愛、平和、自由そして調和の促進をし-あますところのない回答がすべての、小さい、または大きい人生の質問に対して発見されるのです。 Sowohl das SEIN und Sein wie auch das Nichtsein werden entschluesselt und dem Menschen zu einem wichtigen Bestandteil des Wissen und der Weisheit. ”実存在(創造)”と”存在(被造物)”、そして”非存在”は解明され、人間にとって、知識と知恵の重要な部分になります。 (私訳 Hiro) 004 Geist-Telepathie 霊(Geist)-テレパシー von Guido Moosbrugger, Deutschland ギドー・ムースブルッガー著 ドイツ Im Universal-Lexikon von A bis Z wird die Telepathie folgendermassen definiert: ≪Gedankenübertragung, Aussenden und Empfangen gedanklicher und gefühlsmässiger Botschaften ohne Zuhilfenahme der gewöhnlichen Sinne; gehört zu den paranormalen Fähigkeiten.≫ 百科事典AからZには、テレパシーは次のように定義されています:「精神感応、普通の感覚の助けなしでの想念的、感情的なメッセージの発信と受信:超常的な能力に属する」と。 Tätsachlich gibt es verschiedene Telepathieformen; aber in diesem Artikel werde ich nur die Geist-Telepathie zur Sprache bringen, weil sie die höchste Telepathieform darstellt, die es im ganzen Universum gibt. 実際上、異なったテレパシー形態(pl)が存在します;しかし、本稿では、私は霊(Geist)‐テレパシー(Geist-Telepathie)のみを話題にします。何故なら、それ「霊(Geist)‐テレパシー」が、全宇宙の中に存在する最上級のテレパシー形態であるからです。 Im Gegensatz zu anderen Telepathieformen ist sie, wie der Name schon andeutet, rein geistiger Natur, so dass weder Realbilder noch irgendeine phonetische Sprache zum Einsatz kommen. 他のテレパシー形態とは対照的に、それ「霊(Geist)‐テレパシー」は、名前が既に示唆しているように、純粋に霊(Geist)的な性質であり、従って、現実の絵(pl)や、また、如何なる音声的な言語も使用されることはありません。 Die absolute Einmaligkeit besteht darin, dass für die gegenseitige Kommunikation einzig und allein sogenannte Geisttelepathie-Symbole übermitteit werden. その絶対的なユニークさは、相互のコミュニケーションのために、もっぱら、所謂、霊(Geist)テレパシー-シンボルが伝達されることにあります。 Die Anzahl dieser Geist-Symbole ist hochst erstaunlich, und zwar - man höre und staune - beträgt sie insgesamt rund 52 Millionen! この霊(Geist)-シンボル(pl)の数は、最大の驚きです、つまり、- 聞いてびっくり - その数は、全部でおよそ、5千2百万に達します! Ausserdem sind die Symbole ausserst kompliziert, dass sie sogar ein perfekter Künstler nicht aufzeichnen kann. 加えて、シンボル(pl)は極度に複雑であり、申し分のない画家ですら、それらを描くことができない程です。 Soviel ich weiss, wird jeder geisttelepathische Anruf zunächst mit einem persönlichen Code eingeleitet, um dadurch auf alle Fälle den gewünschten Gesprächspartner zu erreichen. 私が知っている限りでは、あらゆる霊(Geist)テレパシー的な呼びかけは、真っ先に、ひとつの個人的なコードで始められますが、あらゆる場合に、それ「コード」によって、望まれた話の相手に届くためです。 Ist der angepeilte Partner gesprächsbereit dann kann es losgehen. もしも、目指された相手がお話中であれば、それは立ち去ることができます。 Gemass Billys Angaben lässt sich der ganze Vorgang sinngemäss folgendermassen darstellen: ビリーの言明によれば、全体のプロセスは次のような意味に即して示されうるようです: 1. Im materiellen Bewusstsein eines Menschen wird der Impuls für telepathische Geist-Gedanken-Energien und geisttelepathische Symbolbilder geformt. 1. ある人間の物質意識の中に、テレパシー的な霊(Geist)-想念-エネルギーと霊(Geist)テレパシーのシンボル絵のために、インパルスが形成される。 2. Diese Idee-Energie wird nun an das materielle Unterbewusstsein vermittelt,das eine schwingungsmässig-energetische Umformung durchführt und mit 147facher Lichtgeschwindigkeit an das geistige Unterbewusstsein weiterleitet. 2. その観念エネルギー「インパルス」が、いまや、物質領域の潜在意識へと仲介され、それ「物質領域の潜在意識」が「インパルスに」振動型-エネルギー的な変換を実行し、そして、「現在の」光の速さの147倍の速さで、霊(Geist)領域の潜在意識へと「物質的中枢意識と霊的中枢意識間の情報交換によって」転送します。 3. Das geistige Unterbewusstsein nimmt eine weitere Umpolung vor, und es gibt die Geist-Symbolbilder ebenfalls mit 147facher Lichtgeschwindigkeit an das geistige Bewusstsein weiter. 3. 霊(Geist)領域の潜在意識はまた別の電極交換に取り組み、そして、それ「霊(Geist)領域の潜在意識」は、同様に光速の147倍の速度で、霊(Geist)領域の意識に、霊(Geist)-シンボル絵を与えます。 4. Das geistige Bewusstsein strahlt nun mit Hilfe der Geisteskraft die empfangene Botschaft als elektromagnetische Impulse mit 1O 7ooofacher Lichtgeschindigkeit an den Empfänger. 4. 霊(Geist)領域の意識は、いまや、霊(Geist)の力の助けによって受け取ったメッセージを電磁気的なインパルスとして、「現在の」光速の10の7000乗倍の速度で、受信者へと放射するのです。 5. Das Unterbewusstsein eines menschlichen Empfängers muss diese Impulse zuerst wieder in Symbolbilder umformen und über das Bewusstsein in die Normalsprache übersetzen. 5. ある人間である受信者の「物質的な」潜在意識はこのインパルスをまず再びシンボル絵に形を変えなければならず、また、意識を経由して、普通の言葉に直さなければなりません。 Alles in allem sind also die Voraussetzungen für die Durchführung der Geist-Telepathie sehr anspruchsvoll. とどのつまり、霊(Geist)-テレパシーの実行のための条件は、非常に要求度が高いです。 Deshalb besitzt derzeit auf der Erde auch nur ein einziger Mensch die Fähigkeit der geistigen Telepathie,und zwar Billy Meier. それ故、現状の地球では、霊(Geist)的なテレパシーの能力をただ一人の人間のみが所有しています、つまり、Billy Meierです。 Um der sehr hohen Anforderung der Geist-Telepathie zu entsprechen, kommen auch nur entsprechend hochevolutionierte Personens in Frage, und natürlich alle darüber befindlichen Wesenheiten, sprich die Geistformen der Halbgeist-Ebene, genannt Hoher Rats, sowie alle Rein- und Reinstgeistformen, angefangen bei der Arahat Athersata - Ebene bis hinauf zur Petale - Ebene. 霊(Geist)-テレパシーの非常に高い要求に適合することは、それに相応しい高度に進化した人柄が問われ、そしてもちろん、そこにある実体についてのすべては、半霊(Halbgeist)領域、所謂、高級助言、そして、アラハト・アテルザータ領域に始まって、ペターレ領域に至るまでの、すべての純粋霊形態そして最も純粋な霊(Geist)形態について語っている。 Die Vorteile liegen auf der Hand. その利益は明白です。 Man kann die Geist-Telepathie als Universalsprache bezeichnen, denn sie allein ermöglicht eine Kommunikation mit 107000facher Lichtgeschwindigkeit und dies auf eine unbegrenzte Reichweite, d.h. von einem Rand des Universums bis zum anderen. あなたは、この霊(Geist)-テレパシーを普遍言語と呼ぶことができます。何故なら、それは唯一、光速の10の7000乗倍の速度でのコミュニケーションを可能にし、そしてそれは、無制限な到達距離であり、つまり、宇宙の一つの端から他の端にまでの到達距離だからです。 Ergo ist diese Verständigung ohne Zeitverlust möglich,weil jede Botschaft im selben Augenblick ankommt, in dem sie abgesandt wird. 故に、時間のロス無しに、この意思伝達が可能です。何故なら、個々のメッセージは、それが送られたと同じ瞬間に、到着するからです。 Und weil die Symbole weder Worte noch reale Bilder beinhalten, kann unsagbar viel mehr zum Ausdruck gebracht werden,als dies mit einer noch so hochentwickelten Laut- oder Bildersprache möglich wäre. そして、シンボル(pl)は言葉(pl)も絵(pl)も含んではいませんから、それがある高度に発達した音声言葉(pl)や比喩的な言葉(pl)で可能でそれを言い表せないほど非常に多くのことが表現されうるからです。 Allerdings ist die Durchführung sehr anstrengend und erfordert ein hohes Mass an Konzentration, auch können bestimmte Störungen während der Geist Telepathie recht unangenehm sein. 確かに、この実現は非常に厄介な事であり、そして高い程度の集中を要求しますから、霊(Geist)テレパシーの間のある種の外乱(pl)は本当に好ましくないのです。 Aus diesem Grund zieht sich Billy stets in sein Büro zurück, um dort möglichst ungestört telepathisch arbeiten zu konnen. これが、ビリーが常に彼のオフィスに引きこもる理由であり、そこで可能な限り乱されることなくテレパシーで仕事をすることができるためです。 Komischerweise behindert ihn Radiomusik selbst mit beträchtlicher Lautstärke bei seiner Arbeit keineswegs - hingegen andere Vorkommnisse, die wir vielleicht eher disharmlos betrachten,wie z.B. von Menschen ausgestrahlte Schwingungen. 奇妙なことに、ラジオ音楽は彼の仕事に際して、かなりのボリュームでも、決して彼を妨害せず - しかるに、私たちがもしかするとむしろ害がないとみなす他の不愉快な出来事、例えば人間によって放射される振動(pl)のようなものが、彼を妨害します。 Wenn Billy eine telepathische Kommunikation im Büro betreibt,hängt er ein Warnschild mit der Aufschrift ≪Bitte nicht stören!≫ an die Bürotüre, oder er schliesst einfach ab, damit niemand den Büroraum betreten kann. ビリーがオフィスでテレパシー・コミュニケーションを行っている時には、彼はオフィスのドアに<<入室お断り>>と書いた警告板を掛けるか、或いは、誰もオフィス空間に入れないように、彼は兎に角、ドアを閉じます。 Alle Geräusche mit einem normalen Geräuschpegel behindern ihn bei seiner telepathischen Tätigkeit nicht. 通常のノイズレベルのあらゆるノイズは、彼のテレパシーによる活動の際に彼を妨害しません。 Wenn aber die Phonstärke das gewohnte Mass überschreitet, dann empfindet er dies disenorme Beeinträchtigung, dass er unter Umständen seine Tätigkeit unterbrechen oder gar beenden muss. しかし、もしも、デシベル・レベルがいつもの量を超えると、その時は、彼はそのノイズを、その環境では彼が自分の活動を中断するか、或いは、完全に終わりにしなければならない程、非常に大きく能力を損なうものと感じます。 Eine solche Situation kann z. B eintreten, wenn jemand mit einem harten Gegenstand an die Bürotür klopft und dergleichen, was neben der genannten Unterbrechung noch eine zusätzliche unangenehme Folge nach sich zieht. その様な状況は、例えば、誰かが何か堅いものでオフィスのドアを叩いた時や、不愉快な中断で、更に加えての好ましくない結果をその後に作動させるようなことです。 Ich kann mich nämlich noch gut erinnern, wie Billy eines Tages aus seinem Büro stürmte und sich beklagte, weil ihn ein zu starkes Klopfen an die Bürotür wie ein Donnerschlag getroffen habe. ビリーがある日、彼のオフィスから走り出てきて、そして苦情を言ったのを、私はいまだに良く覚えている。何故なら、オフィスのドアへの非常に強いノックが彼には雷鳴のようにショックを与えたからです。 Infolge dieser Störung musste er die geisttelepathische Kommunikation unverzüglich einstellen. この妨害の結果として、彼は霊(Geist)テレパシックなコミュニケーションを即刻停止しなければなりませんでした。 Das Missgeschick bescherte ihm aber zusätzlich noch zwei bis drei Tage lang anhaltende Kopfschmerzen,weil das übertrieben starke Anklopfen für Billy, wie schon erwähnt,wie ein Hammerschlag auf seinen Kopf gewirkt hatte. この不運な出来事は、しかし、更に追加で、彼に2乃至3日間続く頭痛をもたらしました。何故なら、そのやり過ぎの鋭いドアノックはビリーにとって、既に述べたように、彼の頭へのハンマーの一撃ように作用したのだったからです。 Ich muss jedoch hinzufügen, dass solche unerfreuliche Störungen schon lange nicht mehr aufgetreten sind. しかし、そのような不愉快な妨害は、それ以来長く、もはや起きていないと言うことを、補足しなければなりません。 Leider treten immer wieder Erdlinge auf der ufologischen Bühne in Erscheinung, die grossspurig bei ihren Vorträgen behaupten, dass sie fähig seien, sich mit ausserirdischen Kontaktpersonen telepathisch zu unterhalten, wobei unzählige Lichtjahr-Entfernungen für sie überhaupt kein Hindernis darstelle. 残念ながら、UFOに関連する舞台に、繰り返して、地球に生息する人間(pl)が現れており、彼らは、その申し出(pl)において、地球外のコンタクト相手(pl)とテレパシーで語り合う能力を持っており、その際に、彼らにとっての無限の光年-距離は如何なる障害をも意味しないと偉そうに主張しています。 Nun - ich selbst war einmal Zeuge einer sogenannten telepathischen Demonstration, bei der eine in Ufokreisen weltweit bekannte Frau am Ende ihres Vortrages ein ca. zehn Minuten dauerndes <Gespräch> führte und selbstherrlich verkündete -was glauben Sie wohl mit wem? mit der plejadischen Semjase, die ihren Wohnsitz auf einem Planeten der Plejadier habe, gesprochen zu haben. 今 - 私自身が、いわゆるテレパシーのデモンストレーションの目撃者の一人でした。そのデモンストレーションでは、UFOサークルで世界的に知られた一人の女性が、彼女の講演の終わりに、約十分間の連続した<会話>を行い、そしてこう独断的に告知したのです。- あなた方が恐らく誰と? と考えるのは、プレアディス人の惑星に住居をもつ、プレアディスのセムヤーゼ(Semjase)と話したのです、と。 Mit dieser Aussage allerdings ist sie nichtsahnend in die Falle geraten, und zwar deshalb, weil sich die ausserirdischen Kontaktpersonen von Billy absichtlich jahrzehntelang als Plejadier bezeichnen liessen, obwohl sie in Wirklichkeit Plejaren heissen. この陳述は、なるほど、彼女が何も知らずに落とし穴に入りこんだのに違いないのですが、しかし、そうなるのは、ビリーの地球外のコンタクト相手が、実際には自分たちをプレヤール人と言うにもかかわらず、意図的に数十年間、プレアディス人と呼び続けたと言う理由からです。 Wenn sie also wirklich Kontakt gehabt hätte, dann wäre ihr diese Tatsache bekannt gewesen. もしも、実際にコンタクトを持ったのならば、その時、彼女はこの事実を知っていたでしょうに。 (In unserem rund 400 Lichtjahre entfernten Sternbild der Plejaden gibt es gar keine menschliche Lebensform, und die ausserirdischen Kontaktpersonen von Billy leben hauptsächlich im 500 Lichtjahre entfernten Sternbild der Plejaren, das sich ausserdem noch in einer anderen Raum-Zeit-Dimension befindet.) (私たちの約400光年離れた、プレアディスの星座には、まったく如何なる人間型生命体も存在せず、そして、ビリーの地球外のコンタクト相手(pl)は、主として、500光年離れたプレヤーレンの星座に住んでおり、おまけにその星座は別の時空次元に存在するのです。) Nebenbei bemerkt hat dieselbe angebliche Kontaktperson ein Ufobuch veröffentlicht in dem sie der FIGU entnommenes Gedankengut mit eigenen Ansichten und falschen Behauptungen zusammengebastelt hatte. その上、同じ自称コンタクティは、UFO本を発表し、その本の中に、彼女はFIGUが集めた思想に、自身の見解と間違った主張とを組み立てていました。 In diesem Fall fällt es wohl nicht schwer, diese Pseudokontaktierin eindeutig als Schwindlerin einzustufen. このケースでは、これらの偽コンタクティをペテン師として、明白に格付けすることは、恐らくそう困難ではありません。 Grundsätzlich kann gesagt werden, dass alle Behauptungen, telepathische Verständigung mit Ausserirdischen zu beherrschen und je nach Bedarf durchführen zu können, auf jeden Fall entweder als reine Einbildung oder als lügenhafte Aussage zu bewerten sind. 基本的に、次のように言えます。すなわち、すべての主張(pl)、つまり、地球外のものとのテレパシー的な理解をマスターし、そして、要求に応じて実行できるという主張は、如何なる場合にも、純粋な想像か、または嘘の陳述のどちらかだと査定されるべきだ、と。 Weil Billy allein die Geist-Telepathie hundertprozentig beherrscht, besitzt auch nur er die Fähigkeit, mit plejarischen Ausserirdischen Kontakte sowohl in persönlicher Form von Angesicht zu Angesicht als auch rein telepathisch zu pflegen. 何故なら、ビリーだけが霊(Geist)-テレパシーを100%マスターし、また彼だけが、プレヤールの地球外の人達とのコンタクトを、面と向かっての個人的な形と純粋にテレパシー的な形の両方で維持する能力を持っているからです。 Beweise für die Richtigkeit meiner Aussage gibt es in Hülle und Fülle. 私の陳述の真実性の証拠は、沢山あります。 Ich verweise auf das Buch <…und sie fliegen doch!> in der erweiterten Neuauflage und auf das <Zeugenbuch>,beide erhältlich im Wassermannzeit-Verlag der FIGU. 私は、新しい版の<…und sie fliegen doch! >そして< Zeugenbuch >を参照しています。二冊とも、FIGUのWassermannzeit-Verlag で入手可能です。 005 OM32-261 Wer Krieg bezweckt, Krieg beginnt oder Krieg führt, der ist schlimmer als die blutgierigen Piranhas, und sie legen sich selbst böse Strafe auf, denn siebentausend Wiedergeburten (unglückliche Folgen) lang wird ihnen Schmerz, Angst, Tod und Entsetzen sein. OM32-261 戦争を目的とし、戦争を始め、戦争を導く者は、血に飢えたピラニアより酷いものであり、そして、彼らは自らに邪悪な刑罰を科すのである。何故なら、7000回の生まれ変わり(不幸な連続)の間、彼らに、痛み、不安、死、驚愕が存在するからだ。 Erklärung: Mit ‹siebentausend Wiedergeburten› sind weder Reinkarnationen der Geistform noch Geburten neuer Persönlichkeiten nach dem Ableben der alten Persönlichkeit gemeint, sondern das OM spricht mit ‹siebentausend Wiedergeburten› von ‹unglücklichen Folgen›, von ‹Schmerzen›, von ‹Leiden›, von ‹Not›, von ‹Elend›, ‹Angst›, von ‹Entsetzen› und ‹Unglück›, durch die das fortlaufende Leben beeinträchtigt wird, wenn Krieg geführt wird. Der Begriff Krieg ist dabei weitläufig nebst wirklichem Krieg auch als Streit, Hass, Rache und Vergeltung usw. zu verstehen. 説明: <七千回の生まれ変わり>という言葉で、霊(Geist)の転生(pl)、また、古い人格の死の後での、新しい人格(pl)の誕生(pl)が意味されているだけでなく、Omfalon Muradoは、<不幸な結果(pl)>の<七千回生まれ変わり>という言葉で、もしも、戦争が導かれたならば、<痛み><苦しみ><困窮><悲惨><恐れ><恐怖><不幸>、それらによって、それらの連続した人生が損なわれると語っているのです。更に、この戦争の概念は、実際の戦争はもとより、喧嘩、憎しみ、復讐そして報復等まで拡張して理解すべきです。 OM35- 29.Wie vormals wandelt ihr nach dem Laufe dieser Welt, nach dem Mächtigen, das rundherum als Gewalt herrscht, nämlich nach der Kraft des Bösen und Negativen, die zu dieser Zeit das Werk haben in den Menschenkindern und in den Lüften um sie her. 29. 以前と同じように貴方がたはことの成り行きに従い、周囲を暴力で支配している権力者に従い、つまり、悪と否定の力に従って歩んでいる。それらの力が、今日、人の子等と彼らを囲む大気の中で活動を行っている。 30.Unter den bösen Kräften der Gewalt habt ihr alle vormals euren Wandel gehabt, in den Lüsten des Fleisches und des Verkommens, und tatet den Willen des Fleisches, und eure Sinne waren Kinder des Zornes von Natur an. 30. 貴方がたのすべては、昔、邪悪な暴力の力の中を、肉と堕落の快楽の中で、歩んでいた。そして肉の意向することを為したし、また、貴方がたの感覚は、生れ付き怒りの子であった。 31.Die Schöpfung aber ist reich an Barmherzigkeit und hat euch immer wieder das Leben gegeben, nach ihren Gesetzen und Geboten. 31. しかし、創造は慈愛に富み、創造の法則と掟に従って、再三再四、貴方がたに生命を与えた。 32.Euch hat die Schöpfung immer wieder aufgeweckt samt eurem Wesen, das ihr selbst bestimmt. 32. 創造は、貴方がたが自ら定めた貴方の実体(Wesen)と一緒に、再三再四、貴方がたを目覚めさせた。 33.Ihr aber versinkt immer wieder im Elend und in Schanden und missachtet alle schöpferisch-natürlichen Gesetze und Gebote. 33. しかし貴方がたは、繰返し困窮と醜態の中に沈み、すべての創造‐自然の法則と掟を軽視した。 34.Aber die Schöpfung hat euch das Leben gegeben und euch immer wieder aufgeweckt, auf dass sie euch erzeigte in allen Zeiten ihren überschwenglichen Reichtum ihrer Liebe und Güte. 34. しかし創造は、創造がいつも貴方がたに愛と善の溢れる富を示すために、貴方がたに生命を与え、貴方がたを再三再四、目覚めさせた。 35.Also seid ihr immer wieder in Liebe errettet worden, durch euer weniges Wissen, das aber nicht aus euch selbst stammt, sondern das der Schöpfung Gabe ist, durch ihre Gesetze und Gebote. 35. ですから、貴方がたは、貴方がたの貧しい知識のゆえに、再三再四、愛の中で救われた。しかし、その救いは貴方がた自身に由来するものではなく、それは、創造の法則と掟による、創造の賜物なのである。 36.Also ist euer Leben nicht euer Werk, so sich niemand dessen rühmen kann. 36. ですから、貴方がたの人生は、貴方がたの所産ではない。だから誰もそれを自慢することは出来ない。 37.Die Menschen alle und ihr Leben sind der Schöpfung Werk, geschaffen in Liebe zu guten Werken, welche die Schöpfung zuvor bereitet hat, damit der Mensch darin wandeln solle. 37. 人間のすべてとその人生は、人間がその中で生きて行くはずてあり、創造が前もって用意した、良き所産のために愛の中に創られた、創造の所産なのです。 38.Darum gedenket, dass ihr auch vormals Menschen gewesen seid, die nur durch die Schöpfung lebten, weil ihr eingeordnet wart in ihre Gesetze und Gebote. 38. だから貴方がたもまた、かつては創造によってのみ生きた人間であった事を考えよ。と言うのは、貴方がたは創造の法則と掟に組こまれていたのだからである。 39.Und ihr seid Fleisch gewesen in früheren Leben, und ihr seid die Ungerechten genannt worden von denen, die gerechter waren als ihr. 39.そして、貴方がたは前世(pl)において肉であった。そして貴方がたは、貴方がたより公正な人々によって不義者と呼ばれた。 40.Zu jener Zeit wart ihr ohne Wissen und ausgeschlossen durch euch selbst von der Wahrheit, weshalb ihr keine Hoffnung hattet und ohne Schöpfung gewartet habt. 40. いつでも貴方がたは知識も無く、貴方がた自分自身によって真理から追放されたのであり、それが貴方がたが何の希望も持たず、創造もなく待っていた理由である。 41.In der Schöpfung aber seid ihr, auch wenn ihr vormals ferne von ihr gewesen seid. 41. しかし、創造の中に留まれ。たとえ貴方がたが、かつて創造から遠く離れてしまっているとしても。 006 OM-32-1064『人の行いによって、前世何で、誰であったか明らかになる』の真理について WASSERMANNZEIT Nr.81の記事、『習慣、性格形成、プシケー(PSYCHE)、そして進化』(Billy)の中に次のような解説がありました。 1992-2-8 H.Thoma 訳 ******************************* このテーマに関しては、『オーム 42章 229~237』に次のように述べられています。 229 繰り返される自然の『型つけ』から習慣が形成されます。習慣は直ぐに第二の非自然的な天性になります。 230習慣は並はずれた力を持ち、それは誤った思考によって操縦されます。そして、素早くプシケに、抵抗し難い影響を及ぼします。 231このことは、プシケの本質から容易に説明できます。つまり、プシケは、ただ感情と思考に従って行動し、それらの感情や思考は、再び新しい感情や思考を生み出すからです。 232即ち、プシケは、次のように、行動をするからです。不快な感情からは離れようとし、快感を得ようとします。また、感情、思考、状態、型つけに対して、快感か不快感を生み出します。 233プシケにとっては、快適な状態は、痛みと結び付く未知な状態より価値があるのです。 234だから、人間、植物、動物のプシケは、全てを経験するまでは、あらゆる未知のものに対して、不安と恐れをもって抵抗します。 235この理由から、プシケは慣れた状態や慣れた刺激の方を、他のものや新しいものより も好むのです。 236しかし、ここに大きな危険が生じます。即ち、誤った感化によって、良いものが次第に、それと気ずかない内に、悪いものに変化されることです。 その変化によって、誤った考えや感情のために起こった習慣を通して、体の誤った制御をしたり、病気にしたりします。 237習慣は、魚が水の中で、鳥は空気の中で生きるように、その中でプシケが生きる要素なのです。 この説明から判るように、プシケは習慣を通して、形成されていきます。しかし、性格はプシケに影響を与えます。それと共に、プシケは、習慣と性格に触れる決定的な要素です。 性格は、人格化された性質、癖、情緒の総和を表現しています。性格は、どんな情緒の状態にで、どんな行動をするかを、人間が考え、感じ、行うように命じ、彼の性格とそれに伴う真実の自我を形成していきます。この真実の自我は、相応しい機会に、或いは相応しくない機会にも、人間に、彼の挙動を通して表現します。真の自我は通例、一つの化身となった習慣を基礎とし、それに応じて形成されます。 私達の科学での、発生に関する遺伝学の意味では、性格素質は絶対的に遺伝するものではありません。該当する人間の、その時々の物質人生での考えと感情の要件なのです。その要件によって、物質的意識の考えと感情とプシケが形成され、それを通じて、個々の人間は一つの肉体人生(inkarnation)から次の肉体人生へと、その固有の性格財産を更に形成し、そのインパルスを通して、一番近い人生で再びその性格財産を出迎える(再現する)ために、それらを貯蔵ブロック(speicherblock)に堆積するのです。このことに関する知識は、対応した貯蔵ブロックに堆積し、人間の新しい人生で、彼の潜在意識を通して、再びインパルス的に迎えられるのです。そして、事情に応じて、意識を通して、否定的に或いは肯定的に形成され、利用されます。 人間が自分の進化を意識的に促進すると、常に新しい知識が彼の中に構築され、その知識を通して、新しい肯定的な性格特性が構築され、その間に、古くて否定的で無価値なものが廃止され、新しい肯定的なインパルスによって押し退けられ、覆われてしまうのです。 この事実は、人間が彼の考えを肯定的発展的に変革し、それによって、彼の本性と性格を進歩的に変えていくならば、明らかになります。それ故に、人間は考え、同時に自らを支配すると言うことができます。 人間のそれまでの全てのものが、定められたインパルスを、惑星空間或いは宇宙の貯蔵ブロックの中に、より完全で変わらない力でもって、宇宙の膨脹の終わりまで存続します。 最も最初の瞬間から、Kenuriopnewma(新しい霊=Kenos=今まで無くて、ほんの少し前に発生させられたもの)また、新しい霊が一つの物質的な人間の肉体に始めて住み、600~800億年経って完全な霊形態になるまで、全ての進化の進行として霊に集められるのだと言われています。 霊の中に、そしてそれを越えて、霊的意識或いは物質的意識での記憶、感情、観念、愛、喜び、憎しみ、Kreative、行為などの全てを、前に述べた惑星空間或いは宇宙空間の貯蔵ブロックに(地球人によれば、AKASHA記録)蓄積しています。 これは、全時間に渡って残すために、完全で広大な力の中に保持され、それを通して、この衝動(Impulse)力を再び人間に反射させるることができるようにし、そして個々の新しい来るべき人生を再び歩むためなのです。 かくして常に、個別で、全く個人的な振動数を示す各人間にとって、このことは次のことを意味しています。 彼の考え、感情、行動、行為の衝動を生み出す全てのもの、そして全ての個別の期間完了までと全ての全大時完了までの彼の全部の人生、そして永遠に至までの人間としての観念、これらの全てが存在し続けると言うことです。止どまることのない進化に於いて、彼のより高い、固有の振動数は価値領域を上昇させます。その際、それでも、彼に固有な低い振動数領域との結び付きが存在し続け、彼にとって個々の時期に呼び戻され続けるのです。 具体的な例として、以下に述べます。 ピアノのような楽器で、オクターブの最も低い音を鳴らし、そして、より高いオクターブの同じ音を弾くとします。最初に鳴らされた、より低い音は次第に消えていきます。完全なオクターブ差が終わりまで行われます。その場合、結局は、或時間でみると、高い音の方が聞こえる振動として存在し続けるのです。そして、それは、人間の意識の振動数変化と振動数増加の進化に、厳密に比例します。 人間は進化と、それに伴う性格形成を全オクターブ領域の一番低い音から始めます。幾百億年の絶えざる前進努力を通じて、彼の発展は持続し、彼はオクターブからより高いオクターブへと自分の音を或程度飛び上がらせ、現在の振動数を改良するのです。そのような経過で、低い音と振動数の振動は、次第に層をなして覆い、そして、全ての時間の為に存在し続ける背景の中に、終局の帰結として入り込むのです。 進化の経過の中で生じたより高い振動数が人間の為に防楯を形成するということは、より低い領域からのインパルスから、彼を保護するということです。人間はそれでも、停滞を崩壊させ、絶えざる、更なる発展に努力します。このことは、次のことを意味しています。 人間が常に同じ低い振動領域に心を動かしていると、前にも新しく耐えしのんだように、一度やった誤謬をまたもや犯し、同じ損害を新たに被ることになります。進化しえない状況にある人間は、再び自分の落ちた振動数の中に深く沈下し、より前の古い振動数とインパルスによって命中され、結果として更に古い誤謬を犯し、それによって、一度うけた損害を被り、そして、彼に命中した、既に自分によって忘れ去られていた、古い衝動(インパルス)によって罪を重ねます。 人間の基礎性格は、母の子宮の中で、既に形成され、多くの彼に影響を及ぼす事情によって上積みされます。例えば、母の力を通して、全ての周囲の環境と個別に生じてくる考え、感情、経験、そして積み重なって沈澱し再び彼に影響を与え、確実な刻印を彼に与える過去の人生での無数の衝動などです。既にこの速い段階で、PHYSEENTWICKLUNG(自然な進化)、プシケと物質意識の進化は無数の新しい影響を、母と母の環境を通して、全ての外部と内部の環境を通して行われるのです。 より広い範囲の刻印は、誕生後、成人するまでの子供時代に、周りの環境を通して、自分自身を通して、教育を通して、しつけによる習慣を通して、その時既に始まるそれらの結果として生じます。この事は子供のプシケ形成の為に、全く特別で、非常に重要で、大きな役割を演じます。 既に述べましたように、性格の基礎は遺伝されることはありません。しかし、子供はしつけと言う習慣を受取ります。習慣は進化が行動とプシケに影響を与えることであり、人生の性格に関係するものです。この事実を通して、両親とその他の関係する人々が、所属させられた人間の為に、成人するまでの速い時期の非常に大きな責任を担っているのです。 つまり、その人達によって、所属させられた人間の進化と行動そしてプシケや物質意識が形成されるか、又は形成し損なうかされるからです。それは、また次のことを意味しています。子供が自分に与えられた教育とそれに従った相応しい感化に対して、彼の素質を中性プラス(Neutral-positive)で、釣り合いのとれたものに、或いは乱れたマイナス(Gestort-negative)で堕落したことに合致させるかして進化することができるのです。 その性格は絶えず、実体(Wesen)を形成して行きます。例えば、行動や性格の中での、誤った形成の欠陥感化を通して生ずると、年をとってから、鉄のような自己教育と苛酷な懲戒を通して、非常に多くの苦労が発生されなければなりません。これらのものは、ほんのしばしばのことなので、非常に多くの人間によっては行われないでしょう。ですから、教えこまれ、それに同化されたプシケー(PSYCHISCHEN)の、並びに意識の、情緒の、情熱の、そして性格の、損害が大きくなります。教育の影響と、それに加えて、子供の時に彼が保護と教育を委ねた関係者の影響は、途方もなく大きな役割を演じます。 生命の性格は、自ら進化する人間を通して、特に、重要で困難な自己教育に関して、決定的な役割を演じます。全ての出来事において、否定的なものや肯定的なものの為に形成し、それで物事を遂行しようとする性格を人間は自分の手の中に持っています。 一般に、ただ、ある種の自主的で、自己憐憫的で、利己的で、加えて個人的な利益を引き出す好み(それは、引き出され、そして前進するでしょう)によって、より良いものへの変化の充足が不可能になると、その人間はより良いものへの実際の変化も実現せず、それに着手することも否定されるように基礎づけられるのです。それは、不可能の故に、確かに、この不可能性によって支配されます。努力、辛苦、制限、責務、闘い、不自由、頂点と底辺、それに苦悩、そして自己認識などの、集まった大きな苦労をすることを引き受けなくなるのです。 人間は、自ら働き、そして固有の、苦労の多い辛い仕事の中で自分をしつけることを、実際に分相応に望まれています。また人間は、いつも、現存する性格の好み(弱点)を妨害せずに性格の勝れた点を構築することもできるのです。 太古の規則は次のようにいっています。情緒、情熱或いは性格の形の中に現存する人間の好み(弱点)からくる衰退とか退化には、成立と活動の為に、彼にとって闘いが告げられてから、その時点までに必要とした時間よりも、長い時間を必要とします。彼を支配した、闘うべき猜疑心が20年前に始まった人間を例にとると、この猜疑心のインパルスの最後のものが中性化され消去されるまでに、20年以上の時間が必要なのですと。 今、ある種の否定的な習慣、或いは否定的で下等な性格素質を取り除く、或いはそれを消去する、或いはより良く変えるができる為には、基礎的な前提として、そのような現存する好み(弱点)を認識し、不承認(無価値なものとする)とするだけで良いのです。 このことから、好み(弱点)の除去の為に、肯定的なものへと導く変化への本当の努力の為に、固定的な処理(徹底した認識と不承認のこと)が行われなければなりません。それによって、変化の発展は初めて進行可能となるのです。最も本質的な処理を通して、自分が支配的で固執した好みによって常に支配され、そして、遅かれ速かれ、この好み(弱点)が、全ての必要な変化を通して、決定的に取り除かれるまでに長い時間をかけて、人間は自ら自分の人生の舵をとるのです。 また、良くない否定的な習慣或いは似たような形成された性格素質は、それに相応しいインパルスを生み出します。そのインパルスは、貯蔵空間に堆積され、自分によって貯蔵され、自分の外にある貯蔵所からのインパルスによって、個々の人生に於いて、絶え間なく、繰り返してそれに襲われ、ずっと、その影響下に置かれるのです。 しかし、良くない否定的な習慣或いは似たような形成された性格素質が解体すると、人間は自分の中に、否定的な衝動を防ぎ、排除する、別の性質を持った肯定的なインパルスと防御力を作りあげます。同時に、その人間の意識振動数が高い方に変化し、その高い振動数によって、低い振動数である否定的なインパルスが遮られるのです。 これは次のことを意味しています。低い振動数の否定的なインパルスが、自分でより良いものに変化し、振動数を高くして進化している人間に命中しても、彼に損害を与えることはできないのです。(周波数を合わせての)受信が成されないし、この否定的なインパルスの振動数を(高い方に)修正することもできないからです。否定的な影響を与える、この否定的なインパルスは、そんなに頻繁に人間に命中できません。その人間の振動数が高い方に進化し、改良していくからです。 このことは、人間に、彼の現在と他の人生からの良くない否定的な習慣と性格素質を消去し、解消し、或いは肯定的な形に変える可能性を与えてくてれます。次のことが、勿論、その人間には必要です。彼が真実に真理を認識し把握し理解すること、そして彼は自分が実際にいると言う風に、全ての物事の中に自分をみると言うことです。けれども、残念なことに、人間の気取った態度、わざとらしい所作、知覚、考え、行為、そして態度は、非常に誇大妄想的で、不遜で、自惚れに満ち、或いは侮りに満ちており、自然で正常なレベルを越えた、似たようなものが満ちています。それらによって、人間は自分では、非常に希にしか、或いは決して、自分の真実の性格を認識することができないのです。真の自己認識は、人間が真理に適った形で、全ての物事の中で控え目に、畏敬をもって自己を形成し、導き、生きる人生を始めた時に初めて可能に成るのです。 このことは、次のことを明らかにします。進化の過程での道中で、好み(弱点)の認識が生じてきます。物質領域での意識プロセスによって、考え、知覚し、行為し、それに体験、経験、把握、理解によって、全ての変化を引き出すのです。その変化は、認識の為の土台となり、間違った形の内部的な態度を変えて形成するのです。これが実際に行われる為には、人間は、自分の思考、知覚、習慣、情緒の中と性格の中に固定したものよりも、必要な変化を確乎たるもとして確立しなければなりません。 自己の敵対と反対する力のもとで、人間は自分の全てでもって、それらの力を苦労して、処置する為に、全てを思考的に鍛練し、生き抜かねばなりません。そうすると、それで生じて来る変化が進行し、作用し始めます。同様の多くのことから、物質意識とプシケは脈動しながら流れ、それによって、人間の中に理解が生まれ、そして、否定的なものから肯定的なものへの変化が現れるのです。 一般に、適用される理性と理解と全体の知力よって、この完全な進化のプロセスは、一つ或いは多数ものが誤って信じられているようですが、人間によって作り出された非常に純粋な物質的知力よる、どんな方法での、どんな形での生産物でもありません。 真理はつまり、こうです: 思考と感情が、両者の同時的な参加と協同作業を通して、プシケの原動力を発生させます。この原動力から、物質意識が力強く語りかけられるのです。思考と感情は、更に、プシケの状態と一致し、命令するもの(プシケ)に従って行動します。ですから、物質意識がプシケの状態の執行者になり、あなたの固有の状態によって、プシケを通して、物質意識が絶えずあなたに命中するのです。このことによって、あなたの思考と感情は、小躍りして喜ぶように調整されるか、または、これに反逆するように調整されるかのどちらかになるのです。プシケに対する、人間のコントロールの欠如によって、各人の努力は挫折するように判決を下されます。人間は、その一秒、一分、一時間にも、「地獄は人間の状態の中にありしたがってどこかの場所にあるものでは無い」と言う真理にしたがって、自由に自分の中に地獄を体験出来るのです。それでも、人間の中に、肯定的なものへの、すばやい改革が起こってきます。その時に、プシケと物質意識はその変革から利益を得、そのような変転が起きます。その時々に或いはその一生の間に、人間にとっては、同様な途方もない進化の一押しが必要なのです。 次のようなことが現れてきます。肯定的なものへの多くの努力と成功は、古くて否定的な好み(弱点)から芽生えた徴候をものともしません。このことは次のことを意味しています。つまり、持続的な進化の方法を生み出す、深遠で、真実に不足のないもとしての肯定的な努力とその結果として生ずる変革が、これ程に正しく、真面目に(あなたによって)実行されていなかったと言うことです。初めに、つまり、思考と感情の変化そして物質意識の変化そして他の全ての重要な要素の変化は、全体の知力が実現されるように、実際にはもっと最初に、古くて都合の悪い好み(弱点)が全く一様に現れて来ないようにさせるべきであり、或いはそのような否定的な習慣や似たような働きをする性格素質を支配するべきなのです。 終局的に、次のことが明らかです。つまり、人間(動物として)の性格は関係者の固有な行為を通じて形成され得ます(プシケとしても同様に)。外からの感化は、プシケをも、習慣或いは性格をも、ましてや物質意識をも予め形成はしません。このような変化だけが、専ら内から外に向かって実行し、効果をもたらします。精神的な変化を呼び起こす為に、外からの影響が引き寄せられる時は、それによって、実際、人間の最内部から外へ変化が生み出され、創造されるのです。 それは物質意識を通して、引き起こされるのです。人間に生命を与えている霊体そのものは、外からの影響或いは他の否定的な影響、物質や人間の攻撃と軽はずみ等による損害から、何時でも無条件にまぬがれて、全時間的であり、永遠なのです。あなたは、唯、あなたの中で、物質意識の経験と価値あるものを取り上げ、それらを有効な知識、有効な叡智、愛に消化し、そうすることを通してあなたは進化し、創造の法則と掟に従って将来、創造と一体になり、宇宙意識を持つものに成るために、あなたの本来的な永遠の道を歩くのです。 (原文校正中にて、後日追記します。 ひろ) 007 平和と自由 平和:この言葉ほど、我々のこの現代において乱用され、誤用され、目的から外れ、汚された言葉は他にほとんど例を見ない。平和とは、口に出せば肯定的な思考と感情、同調と安らぎ、そして調和と共同の感覚を呼び起こすはずの言葉である。にもかかわらず、それは繰り返し用いられる無意味な決まり文句に貶められている。とりわけ極めて無責任で、犯罪的で自分勝手な多数の政治家や、堕落した宗教や教派の指導者たちや、良心のない独裁者によってなされる。人間は好んで平和という概念を口にするが、それをする大部分は、この言葉の意味をかけらでも理解し、その価値を認識しようという意志もなければ、その力もないのだ。 復讐や戦争、テロや報復を叫ぶ者たちには、この言葉がどれほど深い意味を孕んでいるか、この概念にはどのような畏敬と尊敬、調和と愛の響きが混じっているか全くわからないのだ。ただ単に語られるだけでなく実行されるときに、この言葉に宿る計り知れないエネルギーは、自由に発展でき、その中で生命が平和な進路で発達でき、そして豊かさが行き渡っている社会に現れる。この概念をただ単に自分自身の利益のために乱用することなく、それを自分の生命に統合して、すべてを同胞に手本として示す生命形態の、巨大な責任と、成熟と、必要な進化の水準が、惑星全体を平和にできる力を発揮する。だからなおのことひどいのは、指導者と呼ばれる非常に数多くの連中が、民主的に選ばれようと、独裁的に自分で就任しようと、政治、経済、宗教いずれの分野であろうとも、すべての地球市民に、どんな種族や宗教に帰属していると感じているか、どんな肌の色をしているか、どんな社会に属しているかに全く関わりなく、理性と分別をもって適切に平和に満ちた共存と共同をもたらし、支え、保証する能力がないということである。すべての統治者が堕落した人間の屑に属しているわけではないので、平和にする能力がなく、誇大妄想で、権力に憑かれ、利潤の追求しか考えない、傲慢不遜で、自分勝手で、人間の生命形態として堕落した政治家や宗教指導者や独裁者は、限られた数しか出現しない。だがその代わり、人間に相応しくない政治の影響は、人類全体および惑星全体で測るならば、このうえなく凄まじいものである。誤った政治の影響、宗教や教派の悪影響、ミスリードされた経済から生じるこれらすべてのひどい弊害は、将来さらに最悪の形で深刻化するだろう。 現代の政治家や独裁者、教派のボスやすべての宗教の教会長、そしてあらゆる勢力のテロリストたちは、今日の時代において平和という言葉の力と意味を、ただ混沌、テロ、拷問、強姦、破壊、そして殺人や殺害とだけ結び付いている惨めな決まり文句に貶めた。彼らは人間蔑視の犯罪者や殺人者であり、政治や宗教や教派に巣食い、地球人が現在置かれている全世界的な混沌をもたらした張本人である。彼らは政治や民主主義や宗教に関する誇大妄想じみた観念や個人的な世界像を抱いているので、往々にして平和や自由や愛や民主主義について常軌を逸した理解を、暴力と流血により他の人間や文化に押し付ける。その間に政治、経済、宗教および教派の勢力に加え、純然たるテロリストの勢力も極端で無責任になった。彼らには責任感ある首尾一貫した行動は全く不可能だが、それは彼らが行動や行為において完全に堕落しているか、あるいは柔弱になっているからである。また彼らの多くは、一切のことについて駄弁を弄さねばならないという思い違いをしている。しかし必要なのは首尾一貫した行動と介入により、事態が悪化するのを緩和し、できれば回避することである。だが、とりわけ政治と宗教に見られる数多くの妥協は際限のないつぎはぎ細工である。なぜならそうした妥協は、理性と分別に基づくものではなく、なんらかの政治的、経済的または宗教的な依存関係の上に作られたものであり、全く現実的な解決とはならないからである。そのため特に政治的な決定や法律などは、しょっちゅう変更されたり修正されたりするが、それは万事において理性的な基礎が欠けているからである。その結果として、混沌や市民の混乱はますます大きくなるのが常である。一部の無能な国家権力者の政治的な優柔不断と責任感の欠如は、ユーゴスラビアの惨事に見ることができる。特にヨーロッパの政治家の大部分は当時ユーゴスラビアで全く役に立たなかったが、彼らは今日も役に立っていない。なぜならば、すでにすべてが正常になり、なんとか再び丸くおさまったという無責任な意見が、かつても今もまかり通っているからである。そのためユーゴスラビアの戦争指導者たちは、自分たちの母国を阿鼻叫喚の地獄に変えることができた。そして殺人的な流血の戦闘、拷問、特定の住民グループの大量虐殺、テロ、強姦などが行われている間、わけてもEUの政治家たちは、飽きもせず、すべてが和平計画の軌道に乗っているという嘘を主張し続けた。しかし実際には、大地は際限のない殺人と拷問と凌辱により人間の血に染まり、暴力とテロと憎悪によってかつての多民族国家は、いわば中世の時代状況へと投げ戻された。それも、自由思想を奉じ、見かけは民主主義的な20世紀と21世紀のヨーロッパにおいてである。そしてNATOもその戦争により殺人、死、不安、破壊、驚愕をはびこらせたことについては、意図的に沈黙が守られている。1800年頃から続いている宗教紛争、数百年間未解決の問題、そして民族差別が、何千という人間を殺害することによって復活した。欧州の優柔不断と政治的な柔弱化が、戦前、戦中、戦後を通してバルカン半島の情勢を一層悪化させたのである。国家権力者は常に首尾一貫して、場合によっては適切かつ人間として責任の負える軍事的介入を含む、断固たる行動で介入することを決断するか、すべてをあるがままに放置するかのいずれかである。だが、決して見え透いた口実を探してはならず、また何もしなかったり、何かを生半可に企てたりしてはならない。この場合に絶対にないがしろにしてはならないのは、どのような道を進むかということである。というのは、殺人、殺害、拷問、強姦、破壊、その他の堕落した行為が生じないように、常に必要な行動を人間的かつ公正に実行しなければならないからだ。このような形でのみ、人間としての尊厳と、すべての生命や人間の偉業に対する畏敬の念をもって貫徹できるのである。 本来NATOとその加盟国は、バルカン半島で失うものは何もない。が、NATOはそんなことは少しも気に掛けず、邪悪な暴力をもって外国の主権領土に侵入し、その国民から自国の問題を自分たちで決定する可能性を奪ったのである。民族というものは内的な発展過程を通してのみ、平和な共存と共同の時代へと上昇できるのである。しかしヨーロッパのヒステリーと、NATOおよび加盟国の偽りの責任感が万人を魅了した。この誤った責任感は、メディアや政治家によって長期にわたりヨーロッパ人に繰り返し吹き込まれた。その結果、NATO連合軍が外国に戦争を仕掛け、死と破滅と凄まじい破壊をはびこらせたとき、多くの人間が熱狂的に賛同したのである。これと同じことをアメリカ人とイギリス人はイラクで行い、残虐なサダム・フセイン政権を倒し、イラクを救いようのない混沌状態に変貌させた。しかしこれについて付け加えると、アメリカ合衆国大統領ジョージ W.ブッシュがその殺人的で犯罪的な策略をもってイラクでしたことは、サダム・フセインがその残酷な全盛期にしたことよりもはるかにひどいものである。イラクで戦争をしているブッシュの手先は野蛮で退化した獣であるが、それは別のアメリカ合衆国大統領の指揮下で行われた他の戦争でも全く同様であり、これからも変わらないだろう。なぜなら、世界がそれについて黙しているからである。アメリカとイギリスが軍事的に拷問や強姦を働いた下劣な男女に対して行っている軍事法廷による新旧の見せかけの審理は、真実にも、戦争被害の抑制にも、あらゆる悲惨、害悪、困窮の賠償にも寄与しなければ、殺された人々を生き返らせるわけでもない。もちろん拷問犯罪が公に知られたときも、すべてのことが否認され、真の証拠写真も偽造と見なされて、犯罪はなかったと主張されたが、それが当然であるかのように扱われている。第一次大戦と第二次世界大戦、ベトナム、ユーゴスラビア、アフガニスタンおよびイラクでかつて起き、一部は現在も続いている紛争のような規模の問題は、NATOやアメリカやイギリスがしたように、外から軍隊や政治権力が殺人的、破壊的、犯罪的な介入を行うことによっては決して解決できない。このような混沌とした地域や国家では、戦争行為や占領軍は、最良の場合でも見せかけの和平をもたらすことができるにすぎず、破壊されたものをすべて復興するには何十兆もの費用がかかる。残忍にも拷問や屈辱や凌辱を受けたすべての人々を、彼らの心理的、意識的、肉体的なダメージから回復させることもできなければ、残酷かつ野蛮に殺された人々を生き返らせることもできない。いわゆる敗戦国に軍隊が駐留して、すべてのものを再建することはできるが、それは為さねばならない仕事のほんの一部である。しかしこうした一切のことも平和共存に寄与することはいささかもない。紛争当事者はそのような紛争の解決を自分で成し遂げなければならない。外部からのいかなる影響も、長期的に見ればすべての当事者に一層悪い結果しかもたらさないのである。 戦闘的な紛争は多くの国に存在している。特にスーダンでは何千という無実の人々が、男も女も子供も大量に虐殺され、正規民兵団やゲリラ兵も拷問を行い、血の興奮状態に陥っている。この場合、戦争をしているのは国と国だけでなく、種々の宗教団体の信者も自分たちの信仰のために殺し合う。しかしこの事実が世界に知れ渡ることにならないのは、ジャーナリズムにとって十分にセンセーショナルではなく、読者もそれほど関心がないからであり、またすべてが非常に離れた所で起きていて、直接関わりがないからである。同様のことは「グアンタナモ湾」についても言える。そこではいろいろな国の戦争捕虜600人以上がアメリカ軍により非人間的な条件のもとで拘束され拷問を受けた。それは長い間日常茶飯事になっていたが、もはや誰も気に留めない。世界の世論はアメリカの機嫌を損ねないよう、だんまりを決め込んでいる。なんという下劣さであることか! バルカン半島の紛争は永遠に燃え盛る業火であり、その炎は当事者である民族が消さなければならない。彼らのみが理性と分別の道により炎を抑え、消すことができるのである。だがそれは、数百年にもわたるこれら多くの争いと、何ももたらすことのない宗教的対立と血の復讐などが、いかに無意味であるかを認識することによってのみ可能である。どんな力をもってしても、外から平和を押し付けたり、もたらしたりすることはできない。それは不可能である。人間も社会も民族も、望まれる平和は多大な労力を払うことによって作られ、獲得できるものであり、そのために個々人の理性と意志が求められているということを自分で認識しなければならない。しかし、堕落した指導者が繰り返し権力の座につき、人々に不和と憎しみと妬みをもたらし、アジ演説と復讐の叫びと報復欲により彼らを戦争や拷問へ、女の凌辱や子供の性的虐待へ、殺人や殺害へ、復讐、憎しみ、そして報復へと誘導する限り、堕落し無責任で、権力欲に憑かれ、不遜で犯罪的な連中が、自分の国だけでなく他の国々の運命をも決定する。これに宗教がその気違いじみた教えで駄目を押して、そのような紛争を煽り、戦争とテロを助長する。我々の惑星では種々雑多な宗教とそれらの何千という教派が、人間を愚かにする堕落した教義で、いやおうなく紛争を生み出している。なぜならすべての宗教と教派の背後に潜んでいる不合理と信仰の非理性とが、人間をますます混乱させるからである。これもまた、平和共存に、世界を包み込む共同体に到達できない一因である。宗教と、そこから派生する教派が存在する限り、戦争とテロはどうしても避けることができない。この理由からだけでも人間が、自分自身の堕落した目標のために自分たちを利用しているのは誰か、また国を平和と自由のうちに発展し得ることに貢献できるのは誰であるかを認識することは、民族の発展にとって基本的にとても重要なのである。 まさに今日の時代、すなわち旧ユーゴスラビア諸国、アフガニスタン、イラクをはじめ、他の多くの宗教戦争やゲリラ戦争の中心でくすぶる不和やテロや拷問などの極めて危険な火種や、組織された国際テロリズムが世間を震撼させている時代に、再び平和について語ることが多くなった。この現象はスイスや全ヨーロッパだけでなく、世界中で起きている。しかし憎しみと不和は何世代にもわたって人間の体を毒してきたので、彼らはそもそも平和が何を意味するか全くわからなくなっているのである。特に最近では、EUとNATOおよびその加盟国が、バルカン戦争勃発前に、政治的に戦争を回避することに成功しなかったことも、その一因となっている。この事情は、EUという機構全体およびすべてのEU加盟国が無力、無能、無資格であることを物語っている。当時、バルカン戦争が始まる前に、最悪の規模の内戦になるであろうことは明らかだった。しかし誰も指をやけどしたいとは思わず、それゆえまた首尾一貫した政治的行動によって必要なステップを開始しようともしなかった。すでに数千人も死者が出た後で、ようやく遅ればせに何かをしようと決心したときも、すべては中途半端で、必要な首尾一貫性を欠いたものだった。すべての当事者は直ちに武装解除し、責任者を即刻裁判にかけ、判決を言い渡すべきであった。しかし責任のあるほとんどの殺人者は、いまなお自由に歩き回っているか、あるいはデン・ハーグの国際司法裁判所で自分たちが無実であることを演じて見せ、それによって国際司法裁判所を全く信用できない笑い者にしているのである。アメリカに至っては、自国の戦争犯罪人が国際司法裁判所に裁かれるのを拒んでいる。さらに戦争犯罪人に対する裁判が何年にもわたって長引いていることも、国際司法裁判所が完全に無力であることを示している。また何千もの人々を殺した殺人者に判決が下っても、裁判官の茶番と柔弱さのために、大量殺人者は意地悪そうにほくそ笑むだけである。そして生涯社会から追放され、残りの人生を流刑者として送る代わりに、15年ないし20年もすると再び人間社会に放たれ、またもや凌辱や殺人を犯すのである。国民の指導者や裁判官が柔弱で、典型的に政治や裁判において首尾一貫せず、ただ語るだけで、必要な枠内の行動さえ起こせないことは、いかに人間がつねに責任を逃れようとするか、そして状況を認識して正しく評価判定できないために、意識的に必要な論理をもって行動することができなかったかを物語っている。だがこれにはすべての無能な精神科医も責任がある。彼らは役立たずなほら吹きで、どんな重罪人にも、それらの嫌悪すべき行為に対して訳のわからない情状を認める。その結果、重罪人は軽い罰を受けるだけで、しばらくすると再び人間社会に戻されるのである。 今日、どんな国民の指導者を、理性的で責任感のある人間として、つまり常に真の平和のために言葉で肩入れするだけでなく、これを責任ある仕方で実現するために行動する用意のある人間と見なすことがきるだろうか。指導者たちが下賎にも市民に信じこませようとするように、もし彼らが本当にそのような人間であるならば、数百年来今日に至るまで存在している地球のすべての紛争はないはずである。もし国民や宗教の指導者たちが彼らの大言壮語を自分自身の肝に銘じて実行していたならば、彼らは平和という重要な言葉をとうの昔に実現し、とっくに時機を失した人間に相応しい状態をこの惑星の上に生みだしただろう。そうする代わりに上層部の人間、国家権力者、宗教の頭目およびそれらの手先は互いにたぶらかし、だまし合っている。同様に彼らは、天に向かって叫んで、文字通り悪臭を放つような人間蔑視のやり方で自分たちの国民をもだますのである。そしてこうしたことはただすべて、破廉恥にも嘘とペテンで自分たちの利得をだまし取るためなのである。彼らはただ自分たちの権力、自分たちの利益、自分たちの利潤のみを追求し、国民と世界に自分たちの権力を発揮することに意を用いる。そうしない場合でも、彼らは疑わしい平和に浸った国で名声の上にあぐらをかき、自分の国で真の平和を獲得し、あるいは殺人や殺害が行われている所で平和と調和を生み出すために必要な責任を引き受けようとは決してしない。他方で、国を裏切り、屈辱的にも祖国の主権を高く売り付け、自分たちの国家を疑わしい宗主権の支配下において自由を破壊する国家権力者とその愚かなシンパがいる。 ヨーロッパ域内では比較的うまくいっているとは言え、平和な印象は全くの見せかけにすぎない。世界平和に貢献することのできない様々な国や、それらの指導者が引き起こす政治的な影響はまぎれもない。多数の国民の指導者は自分たちに任された地位を、低劣で無責任な仕方で利用している。彼らは憎しみ、不和、妬み、そして戦争を撒き散らし、その他の災厄を引き起こす。彼らの気違いじみた病的な思考と振る舞いは、地球の住人と惑星全体に殺人と死、悲惨とテロをもたらし、それが結果として自動的に全人類に影響を及ぼす。この場合、彼らが現在のところ幾分か平和なヨーロッパやその他の地域で生活しているか否かはどうでもいい。なぜなら、軍隊、テロ、宗教および教派が引き起こすあらゆる事件の影響およびその結果は、遅かれ早かれ一人残らず全員に降りかかるからである。ヨーロッパのほとんどの国では欲しいものがすべて手に入り、数十年来、戦争その他革命的な騒動が起きていないからという理由だけで、ヨーロッパ人が世界平和に対するグローバルな責任を免れ、またこの状態がずっと続くと信じるのは幻想である。人間としても、人間相互間においても堕落した戦争の推進者や扇動者がいまだに存在してなおも悪事を働き、一部は疑わしくも「政党民主主義的に」選出された国民の指導者として振る舞っているが、彼らを抑え、その行動に終止符を打つことは、すべての人間の共同責任である。 平和はとりわけ対話する用意のあることを前提としているが、それは理性的な妥協なしにはうまくいかず、いずれの側も譲歩しなければならないという認識を伴う。戦争を行い、自称人道的または宗教的な目標のために人間を殺すことは、とりもなおさず邪悪、残忍で、人間に相応しくない暴力を働き、同胞を虐待、抑圧、凌辱し、虐殺することにほかならない。だがこうしたことはかなりの人類犯罪者にとっては児戯にすぎない。同じことは堕落した国家権力者だけでなく、秘密諜報員や軍隊として拷問、殺人、強姦、凌辱を働く彼らの手先にも言える。実際、堕落した政治的思考や宗教的狂気に憑かれた下賎な輩がほんの数人もいれば、自称平和で崇高な目標を達成するために、全国民を混沌へと追いやり、人殺しとテロをはびこらせることができる。それによって平和を愛する無数の罪のない人々、女も子供も男も、困窮と悲惨、苦痛と死に苦しめられることを、彼らは少しも気に留めないのである。 戦争は正常なことであり、人間に付随する現象であるということが再三言われているが、地球の歴史は今日の時点に至るまで、この恐るべき「正常さ」にかけてはまさに言われる通りであるということを示している。だがそれは、地球人が自動的に今後も攻撃性を維持せねばならないことを意味するものではない。この攻撃性は数千年来地球人に付随していて、宗教、教派、血と権力に飢えた国家権力者、狂信的なテロリストと並び、不和と不自由、また同胞に対する無関心と冷淡な状態を生み出している主因をなしている。しかしだからと言って、世界中で人類に食い込んでいる一切の邪悪が、これからもすべて存続しなければならないことを意味しない。 平和は財産であり、計り知れない価値であるが、それは地球人が多大な努力を払って生みだし、獲得しなければならない。しかしせめて自分の中だけでも平和を生み出そうと本気に努めるならば、少なくとも現在の地球の状態が示しているように、それは個々の人間にとって非常に苛酷な戦いを意味する。なぜならば、その戦いは外に対しても同胞と平和を結び得るためには必要だからである。地球人の攻撃性と、故郷の惑星地球における戦争やテロなどの歴史的事件に鑑みて、すべての人間は将来平和に共存することを目指さなければならない。平和は決して外から押し付けられるものではなく、また戦争やテロ、その他の暴力的な手段で獲得できるものでもない。それは不可能であるどころか、その反対である。暴力によって平和を創ろうとしたり、テロ攻撃によって何かを肩代わりしようとしたりするならば、自動的に新しい暴力や紛争を誘発しても、平和的な考え方や自由な方向を生み出すことは決してないのである。 本当の平和は何よりも、すべての人間が自分の思考、感情および行動をみずから明確なものにして、暴力と強制によってはいかなる問題も解決できず、絶えず新しい問題が生まれるばかりであろうということを認識することを含んでいる。この認識は地球人の間で緊急必至に成熟し、外に向かって伝えられ、そして同胞に手本として示されなければならない。この状態が手本として示されると、遅かれ早かれ自動的に他の人間も大なり小なり見習うようになる。なぜなら、これらの人間は、意識の中でそれが何か貴重なものであることを認識するからである。だから、この認識が広まるのに、最初はまばらで、時間もかかるが、やがて価値あるものの全体を認識する姿勢と能力を備えた他の人間に雪崩をうったように伝えられる。もちろんこのような洞察になかなか到達できない人間や、それどころかそれを拒絶し、暴力の道を歩むことができると思い込んでいる人間もいる。だが彼らも遅かれ早かれ真の平和に心を砕いている多くの人間によって、いつの日かより善いものを教えられ、それと向き合わなければならない。すべてがばらばらになっているように見え、人間の命が全く価値を持たない今日にあっても、諦めたり、現実から目を背けたりしてよい理由はない。否、むしろ立派に人生を送っている人間は、それを続けて行かなければならない。詐欺師、殺人者、その他いつも混沌や憎しみ、嫉妬や不和を生み出す堕落した下等な人間に腹を立てるべきではない。むしろこれからも、存在の基礎として、一切を数年、数十年、数百年にわたってより善いものへと変えていくのに必要な生命、調和、真実、畏敬、愛などの基本的価値に準拠するべきだし、しなければならない。個々の人間は平和という言葉の意味と価値に新しい勢いと深みと力を与えるのを助け、そしてその責任を引き受けなければならない。具体的に言うと、平和は社会のすべての階層とそれを構成している人間に、誰もが発達して進化していくための基盤を提供でき、招来すべき状態をも意味する。国民、したがってまた個々の人間は常に理性と分別をもって、ひいては内面の学習と成熟のプロセスによって認識して、真の平和のみが本当に進化を意味し、戦争、テロ、破壊、迷妄、狂信、変質は退化と災厄を引き起こすだけだということに意識の照準を合わせなければならない。この内面的な認識およびそれと結び付いた学習プロセスは、人間が平和と自由、愛と調和において共生し、人間の共同体が現実に機能するための基盤である。学問や技術や生活の質などは、平和な時代に予想外の規模で発展し拡大でき、それによって途方もない未来の展望が開ける。それはすべての人間においておのずから展開し始め、追求するに値する進歩をもたらす。繁栄した社会に否定的な要因、たとえば社会の崩壊や犯罪の増加などが生じたら、これに対抗してその進行を食い止めるためには、人間は人生を意識的に生き、自分の強さと弱さを認識し、人間の生命形態として意識的に自らと取り組み、あらゆる方向に向上しなければならないのである。 平和は福祉と発展と進化を保証する。戦争やテロ等は、破壊や退行と結び付いている。憤りや憎しみや妬みが決して人間において肯定的なものや善いものを生み出すことができないように、これは暴力やテロや戦争によっても可能ではない。どんな社会も個人も破壊と戦争によって発展できないし、人間相互において堕落した紛争による解決も決して何らかの肯定的なものを生み出すことはできない。生命について考察する際は自分自身の観点や利益が中心をなしてはならず、同胞とその利益や必要、さらに平和、自由、愛および調和も熟考に、したがってまた思考と感情に取り入れて、決定を下す際に平等を配慮することができるようにしなければならない。自分の観点に立つだけだと非常に視野が狭くなり、決して現実的な効果や真の平和には至らないだろう。もし人間が同胞の利益を顧みず、自分の利点だけを考えたら、平和と愛にも、自由と調和にも行き着くことはできない。すべての関係者の微妙な差異を考慮することが大切であり、さもなくば絶対に長続きしない。政治的、宗教的狂信と堕落した歴史意識による数百万もの犠牲者は、そのような思考と感情と行為が狂気であることを示している。そのような歴史意識に基づいていろいろな陣営が自らを歴史上正当と見なして他の国や地域を要求するが、これはその無分別な行為により殺人とテロと無政府状態で覆われたすべての人間を犠牲にしてなされるのである。 テロ政策を支持し、自らを正当と見なし、いわゆる和平交渉で勝者たらんと欲する政治家やタカ派連中を除けば、両陣営には敗者しかいない。さらにひどいことに、戦争や紛争は当事者の地域に限られていない。なぜならそれらはむしろ、直接的であれ間接的であれ、直接関与していないすべての国家や人間に影響を及ぼすからである。責任を負うべき政治家や指導者は、自分たちの破壊と大量虐殺の政策によって何をしでかしているか、今日に至るまでまだ理解していない。彼らは他の人間に対して責任を負うことができず、いわんや他の国々に対して責任を引き受けることは不可能である。人間蔑視の犯罪的な二つの集団が数十年来互いに交戦状態にあり、それぞれ自分たちの国民を平和な時代へと導くためにいかなる手段も講じようとはしない。誤った歴史の解釈に基づいてでっちあげられた理由に支えられた論拠は、すべての陣営にとって紛争を破壊、強姦、拷問、殺人、殺害で埋め尽くし、テロの応酬をし、そして考えられる限りの可能性を利用して平和を妨げ、憎しみを煽るための十分な理由となるのだ。 人間蔑視の犯罪的で変質した政治家と犯罪的なタカ派を抱えるイスラエル政府もそうであり、彼らの戦争扇動的な政策はパレスチナ人との共存を不可能にしている。しかし他方にはパレスチナのテロリストと公認された政治集団およびそれらの手先として働く殺人者がいる。彼らの本来の関心は、イスラエル人に対して決して終わることのない永遠の戦争を仕掛けることである。いずれの陣営もその思考は非常に堕落、変質して原始的なので、もはや解決を探すことも見つけることもできない。それは責任を担うべき人間に相応しい、恒久的な平和を保証する解決である。それを彼らは全く望んでいないのだ。それにもかかわらず彼らは飽きもせず和平プロセスに関する偽りの誓いをする。その一方で、どこかの地域で無実のイスラエル人が爆弾で吹き飛ばされたり、パレスチナ人がイスラエルの占領軍に射殺されているのである。とりわけ権力欲に憑かれた2人の指導者アリエル・シャロンとヤシル・アラファトは、彼らの無責任な行動と行為により、平和という概念が全く空疎なものに成り下がることに貢献している。これら堕落した二人の輩はしょっちゅう和平交渉、和平計画、和平の道、和平会談、ロードマップなどという言葉を口に出す。しかし彼らはただの一度も、誠実で平和的な意図で和解交渉に臨むことができない。テロや破壊を行い、人間の生命を滅ぼし、何にも増して人間の共存の基礎をなしているあらゆる価値を軽蔑する彼らの政策は、彼ら二人をテロと誇大妄想の従者にした。この悲しむべき二人の政治家に由来する歴史的、人間的な狂信、そして彼らが撒き散らす憎しみと不和は、その振る舞いとそこから生じる結果により、世界平和や多くの地球人の真の人間性を実現することがいかに困難であるかを物語る最良の例である。 両陣営の国民の中には十分な理性と分別を備えた人間がいて、平和を通してのみ共通の未来が生まれるということを知っている。両陣営の国民の大部分は平和を望み、妥協する用意がある。しかし戦争遂行者や戦争扇動者たち、平和をテロによって達成できると思い込んでいるすべての愚か者や変質者は、実際にはすべての和平プロセスを妨げ、これに関するすべての端緒をいつも芽のうちに摘んでしまうのである。これらの時流に遅れた変質者たちは、自分たちの地域の人間に何をしでかしているか、また地球の全人類にどんな災厄をもたらしているか、そして彼らの憎しみと妬み、テロと永遠の紛争によって何を引き起こしているか全くわかっていない。これら両陣営が対立して破壊を繰り返している間は、地球に世界平和が訪れることは決してないだろう。両陣営も、堕落者にたぶらかされている国連も、真の平和によって地球人の存続を確保するために、新たに本当に誠実で平和な道を進むことが求められている。何よりもアメリカ政府とその共犯者の破壊的な策謀に引き起こされて、世界的な規模での軍事的な紛争、すなわち第三次世界大戦が起こるとすれば、その発端は中東にあると想定してよい。この状態に対して主たる責任のある両陣営の政治家は、その犯罪的な行為のために解任され、生涯社会から追放されて、彼らの残りの人生にわたり病的で尊大で誇大妄想的な行為の責任を取らされてしかるべきである。 これよりはるかにひどいのは、他国の問題に絶えず干渉する政策によって主たる責めを負うべきアメリカ合衆国の極めてさまざまな行政機関である。非人間的な大量虐殺や拷問、アメリカ軍の良心のない堕落した分子によって捕虜に加えられる臆面もないあらゆる性的虐待も身の毛がよだつ。しかもそれはイラクやアフガニスタンだけでなく、至る所でアメリカの男女の兵士が恥ずべき残忍な所業を行っているのである。だがこれは今日アメリカ軍のいろいろな分子の間で慣行となっているだけでなく、ずっと昔、インディアンが多くのアメリカ市民やアメリカ軍によって虐殺、凌辱され、死に至るまで拷問されことに始まり、ベトナム戦争に至るまでずっと続いていたのだ。これについてはソンミ村の大虐殺や、アメリカ軍の兵士によるその他すべての堕落を思い起こすだけでよい。同様のことは世界中で起きている数多くの紛争や、第三次世界大戦の危機に対するアメリカの決定的な罪についても言える。国民自身が犯罪的な国家権力者とその同調者を解任し、彼らの取り巻きと一緒に終身追放に処するほど賢明ではなく、責任感に欠けるならば、本当に第三次世界大戦が起きるだろう。そしてそれは影響の点でこれまでのすべての戦争を陵駕するだろう。 特に最近数十年間のアメリカ政府の策謀とパワーポリティクスおよびその政策は、世界中のすべての人間や国の負担と、人間のあらゆる権利と義務および人間の尊厳の蔑視に基づいて、常にアメリカの利益だけを優先してきたが、それは全人類および惑星に大きな損害をもたらした。アメリカという国は、遠い未来に至るまで惑星地球を平和にする能力も意志もない。なぜならばそれに必要な責任感が完全に欠落しているからであり、またアメリカは破廉恥にも惑星全体をそのすべての資源もろともせしめようとしているからである。その際に世界の半分が破壊され、数百万の人間の命が奪われることは、犯罪的な責任者にとってどうでもいいことである。それは国民の中の愚かなシンパにとっても同様であり、彼らの責任感も全く取るに足りないものである。アメリカは軍事、テクノロジー、経済ではトップに立っていようとも、道徳、倫理および人間関係では第三世界の基本的な価値や理想にはるかに劣っている。アメリカ人の大部分、広範な大衆は、影響を受けやすく、操作しやすい。なぜならば、彼らの意識は権力と金と消費に向けられているからである。人間の基礎をなす基本的な価値は完全に欠落している。この国は世界警察を気取り、民主主義の極めてさまざまな基本的な価値(疑わしい民主主義、偽りの自由および偽善的な平和の叫びと結び付いている)に肩入れするかのような印象を与えることには成功したが、それは見せかけだけのとんでもないものである。他の国々の利益は常にアメリカの利益に道を譲り、それを貫徹するためには残酷な暴力のいかなる邪悪で堕落した手段も厭わないのである。 アメリカは戦争を扇動し、独裁政治を支持し、ありとあらゆる政府や人間を互いに争わせては、自分の目標を達成して自分自身の利益を実現する。この世界で憎しみや不和や嫉妬を煽り、そして自分自身の政治的、経済的目標に適っているならば、独裁者を助長するためにどんな手段でも使う。厳しくも明確な言葉で表すならば、それは反米主義とは何の関係もない事実であり、政治の現実である。事実、それらは毎日のように観察できる。世界中で独裁的な手段とテロと暴力によって進んで実行される虚偽、不遜、権力欲は、アメリカをヨーロッパが早急に離反すべき国としている。この離反が絶対に必要であるのは、アメリカの政治的、経済的利益が、他国の利益も考慮し、また他国を同等のパートナーとして認めることから遠く掛け離れているからである。世界的な共同体が可能であるためには、すべての関係者は平等でなければならない。しかしそれはアメリカの政策で常々体験できるように、思考と行動が許さない。アメリカは自分をそれ以外の世界のすべての国や人間よりも善いもの、価値の高いものと見なし、みずから賛美する。このような考え方は、真実を認識した立派なアメリカ人が、この国に建国以来つきまとっている愛国主義と利己主義の海で彼らの声を発し、反対することをほとんど不可能にしている。だが、それも無理もなかろう。かつてのヨーロッパからの移民の遠い子孫の一部は、ヨーロッパから建国当時のアメリカ、すなわち無限の可能性を秘めた国へ逃亡したり、当局によって追放されたりしたすべての犯罪者や教派主義者と異ならず、少しも良くなっていないのだから。 柔順なアメリカ合衆国市民の操作しやすさ、多くのアメリカ人が見せる偽りの友情のポーズや完全に誤っている堕落した愛国主義は、合衆国市民の皮相さを表している。彼らは人生の真実と現実に対する視野を失ったか、一度も体得したことがなく、すべての思考と感情そのものが嘘と欺瞞で濁っている。そしてこれに属するアメリカ市民は、アメリカ合衆国の政府、諜報機関および軍隊とあいまって、地球と全人類に対する脅威を意味する。アメリカ合衆国の対外政策の結果はすべて、テロ、破壊、操作、諜報活動、陰謀からなる際限のない災いをもたらし、世界をいっそう不安定にしている。それは今後も著しくその度を増し、全人類に最悪の結果をもたらすであろう。しかし、ついにアメリカ市民の大多数が良い方向に変わらなければ、堕落したアメリカ合衆国のあらゆる犯罪的で無責任で人間に相応しくない策謀から身を守り、こうした一切の害悪を全く変えられないことを恥じる合衆国市民は、遺憾にも少数派になってしまうだろう。 アメリカ合衆国は他人に禁じている武器を所有する権利はない。理由や動機が何であれ、民主主義、自由、平和、愛、調和、神託、テロリズムとの戦いなどの名目で、他国に戦争やテロを仕掛ける権利はない。価値の基準、世界警察、そして誇大妄想的な超大国を気取って、その完全に変質した価値や生命の基準を他人に押し付ける権利はない。アメリカがこのような道を取って進み続ける限り、恒久的な真の平和と実質的な自由に到達することは決してできない。世界共同体はついに、アメリカの出過ぎた振る舞いをたしなめ、アメリカと対峙するために必要なステップを踏むことが必要である。それと同時に、アメリカの政治、軍事、諜報、経済、教派の勢力は、地球のすべての国から撤退しなければならない。アメリカが他国の内政に再び干渉してはならないことは言うまでもない。アメリカの超大国政策を早急に抑えなければならない。さもなくば、あらゆる害悪の中でも組織された国際テロリズムは決して終焉を迎えることはなく、最近世界中で起き、現在も続いているテロよりさらに何倍も悪くなるだろう。 何百年も前から、恐らくは人類が誕生して以来、繰り返し体験してきたように、さまざまな徒党、国民や政府の堕落した誇大妄想的な指導者は、その政体が民主的であるか、独裁的であるか、宗教的であるかを問わず、彼らの嘘と権力欲と病的な考え方により、何百万人もの人間の死に対して責任があったし、これからもそうであろう。昔から、尊大で良心のない国家権力者は自分たちの個人的な利益のために、自国民を偽りの約束や、虚偽の主張や、陰謀と嘘で再三再四他国にたきつけてきた。大部分の聴衆は、憎しみや復讐や報復欲の熱狂と、国家権力者や戦争を煽る連中による戦争の雄叫びによって催眠状態に引き入れられ、自分自身で事実について検討したり、指導者の誇大妄想について熟考することはない。真実を認識する者は常に少数派であって、人々は彼らの呼びかけを戦争の雄叫びの中でもはや聞き取ることはできないか、あっさり聞き流してしまうのである。 国家権力者やテロリストどもにとって、戦争やテロ行為のために巨額の金を浪費するのはたやすいことである。しかし納税者はそれを稼ぐために大変な苦労をしなければならない。さらにまた暗示力を持った無責任な輩にとって、不安定な人間を操作するのもたやすいことである。それらの人間は愚かで無知なために本当に事実について考えを巡らすことができないのである。彼らはまるで犬のような卑屈さで不誠実な誘惑者の後を這いずり、その臭いおならにうっとりするのである。実に、犯罪的な連中の靴をなめるのは、自分の靴をピカピカに磨いて颯爽と歩くことよりも簡単なのである。また、戦争を阻止し、妥協を見いだして真の平和に達することに全力を尽くす代わりに、戦争を煽る方が簡単である。全く同様に、人間に必要な尊敬と畏敬の念を払い、人間の命を大事にするよりも、兵器の威力ですべてを破壊し、人命を奪う方が簡単である。 地球人は平和と自由の名で戦争を行っている。数千年間戦争に明け暮れた後でも、地球人の歴史が証明しているように、戦争とテロは決して平和と自由を、同様にまた愛と調和をもたらし得ないということが認識されなかったのである。 すべての国民は、他国を戦争に巻き込む指導者を、いかにその理由がもっともらしいものであっても直ちに解任して、永久に社会から締め出し、二度と再び社会に戻って来られないようにすべきである。人類がその惑星でついに真の平和と自由を作り上げ、見いだすことができるように、ブッシュ商会、ブレア、シャロン、アラファト、フセイン、そして今も将来も堕落した人間どもと称され、常に争いや戦争やテロに責任のある連中は皆追放されてしかるべきである。しかし、あらゆる民族の人間が、これらすべての権力に憑かれた誇大妄想的な大量殺人者に統治させている限り、不和と戦争は絶えることなく、人間は平和な共存からますます遠ざかるだろう。こうした戦争や不和の張本人は、いつもすべての問題を暴力によって強引に解決しようとし、それにより世界に混沌を生み出し続けているが、地球の人間がこうした連中から解放されて初めて、国際的な和平プロセスを始めることができるのである。しかしそれが始まるためには、何よりもすべての人間が自分自身と取り組み、自分の人生がお上によって決定され強制されるだけでなく、およそ平和共存が可能となるのに必要な責任を進んで引き受けることが必要である。ヨーロッパ、近東、アメリカ合衆国、あるいは世界のどこに住んでいようとも、個々人が人間として求められているのである。真の平和は、人間が次のことを認識し、学ぶことによってのみ達成できる。すなわち、人間は思考と感情により、尊敬と畏敬と尊厳により、そして寛容によって自分自身の中に平和を作り出し、次にそれを手本となるように同胞に示し、他の人間がそれに倣って身を正すようになることである。つまり平和は内的なプロセスによって作られ、最終的に実現されなければならない。考え方が堕落した支離滅裂な宗教的狂信者、すべての宗教家、誇大妄想で無責任なすべての政治家や独裁者は、人間が人間に対してどのような責任を担い、果たすべきかを知っている人々に取って代わられなければならない。このプロセスに何らかの良いもの、肯定的なものをもたらすのは、宗教でもなければ政治でもなく、ましてや軍隊や諜報機関や教派でもない。それは、自らの内に平和への願望を生み出し、それを自分の人生の意識された部分としなければならない個々の人間なのである。このような意識的なプロセスによってのみ、すなわち平和のために何事かをなし、平和をもはや意味のない決まり文句に貶めないという決意によってのみ、いつしかすべての人間が平和な世界的共同体に参入することが根本的に可能なのである。 人間の憎しみは、ユーゴスラビアであろうと近東であろうと、和平を当てにして軍隊を派遣したり、安全のためにフェンスや境界を敷設することによって克服できるものではない。憎しみを克服できるのは、邪悪な過去はそのままにしておいて、現在と、そしてより良い未来と取り組むことによってのみである。過去の過ちから学び、それによって得た認識を現在と未来に取り入れることはできるが、すでに起きてしまったことは変えようがなく、後戻りさせることもできない。それゆえ、いわゆる過去の克服という偽った意図で、過去の犯罪や、起きてしまった人間の堕落行為、たとえば過去の戦争、独裁、破壊、拷問、その他あらゆる種類の残虐行為をいつまでもつつき回すのは無意味で、とんでもなく馬鹿げたことなのである。それが役に立たないのは、実際にはそうした誤った行動は、一方ではますます新たな憎しみと復讐欲を生み出し、他方ではこの浅はかな行いにより、かつて罪を犯した人間の無実、無関係の子孫の中にひどい良心の呵責と罪悪感が生まれ、しかもそれは狂気に至る恐れがあるからだ。事実、罪ある者の子孫は無実であり、いかなる形においても自分が犯していない犯行の責任を問われてはならない。もちろん過去の残虐行為や歴史上の出来事は忘れてはならないが、それらは過去に属することであり、回想行為や式典などによって未来に持ち込んではならない。だが、地球人はこれを記念日や記念式典などの形で行い、それによってすべての残酷な過去を繰り返し記憶に呼び出しては熱くしているのである。しかしすでに言ったように、それは一方では憎しみや復讐の考え、さらには罪悪感を生み、他方では惑わされた者は、かつて罪ある者がしたのと同じように行動するよう鼓舞されるのだ。 邪悪な出来事、残虐行為、暴力的犯罪、非人間的行為、その他あらゆる種類の堕落は、人間や民族や国家の歴史全体から見ればほんの小さな部分にすぎない。だがそれらを記念式典などで繰り返し記憶に蘇らせることは、多くの人間の中に良心の呵責、恥と罪悪感、憎しみと憤り、あるいは残虐行為の模倣を生みだす効果しかもたらさない。だが、それは決してすべての当事者の発達を促進するものではなく、絶対に阻害するものである。要は過去を否定したり、忘れたりするのではなく、前方へ、未来へ目を向けることである。しかしそれは、常に後ろ向きで、過去をひっかき回すならば、決して可能ではないだろう。というのは、過去の残虐行為や犯罪や非人間的な行為を永久に引っ張り出すことによって、思考と感情に罪が生じるだけでなく、上述したように憤りや憎しみや野蛮な情動も生まれ、破壊や殺人や殺害につながるからだ。地球人はいつまでも残酷な過去に固執していては、内面の平和、個人の平和、そして世界の平和に近づくことはできない。彼らはおそらく、人間が互いに過去の歴史における堕落や戦争や破滅を咎め合い、昔の残酷な歴史を蒸し返しているのだということを認識できまい。そして人類は必ず視線を前方へ、未来に向ける場合のみ未来を持つということも認識できまい。まさにここで問われるのは、国家権力や独裁権力、そして宗教や狂信主義やテロリズムの勢力に属する破壊者や無責任な人間、人殺しや犯罪者、そして大量殺人者がとうの昔に犯した残酷行為を、記念式典によっていつも新たに蒸し返しては、新しい害悪を呼び出している愚かさと無知がまだどのくらい続くのかということである。 とりわけヨーロッパは地球全体の平和に新しい意味と次元を付与する潜在的な力を持っていると言ってよい。だがそれは残念なことに、自国の利益を他国の利益に優先させる、頭のいかれた個々の政治家のために水泡に帰している。彼らは宗教的、歴史的理由から、あるいはしばしば彼ら自身がおっぱじめる自国を巻き込んだ土地争いのために、自分たちの利益を前面に押し出さなければならないと考えている。これらの度し難い政治的、宗教的な馬鹿者と利己主義者、自分の行動のためにやたらと神をかつぎ出しては神に誓いを立て(ついでに自国の憲法にも誓う)永遠に時代遅れの連中は、今日まで人間に相応しくない歴史から何一つ学ぶことはなかった。こうした政治屋がどれほど久しくヨーロッパのすべての政府に巣くい、万人が一体となって共同の力を発揮し、平和な共同体を実現するのを不可能にしてきたことか。ヨーロッパではすべての国家がEUに加盟し、あるいは加盟国であることから利益を得ようとするばかりで、自分から何かを与える気は全然ない。これら寄食者どもはEUの共同体において失うものは何もなかった。EUそれ自体が懐疑的で独裁的であり、ほとんどすべての国家権力者がやっているのと同じように権力の網を張り巡らせている。ヨーロッパの国家はすべて、欧州連合の利益と加盟国を代表し、その一員になるか、あるいは全面的にボイコットされるかのいずれかを自ら決定しなければならない。他方、欧州諸国はアメリカの政治のシンパとなり、世界中で国家によってテロが行われている所にしがみついている。こうした影響力はすでにNATOにも及び、NATOに加盟する国々の軍事力が戦争に使われた結果、邪悪な暴力が蔓延しているのである。しかしこれら一切のことは、たとえ人間というものは常にすべてを手に入れようとする傾向があるものだとしても許されるものではない。現在まさに、ヨーロッパが必要な責任を引き受け、ついにアメリカに対して不可欠な対極を構築し、そして合衆国政府機関によって永久に戦争を遂行し、絶えず地球上に不和を引き起こしている、この道徳的に非人間的な国から完全に独立すべき時である。このことはEUにも言えよう。EUは本来アメリカ合衆国の戦争の策動と世界支配の努力から身を守るべきである。だが、EU加盟国の責任者とその同調者は実際は何をやっているか。彼らは他人の国で戦争しているアメリカ軍を助けるために自分たちの兵力を派遣しているのである。もちろん、アメリカの責任者とその熱狂的な賛同者の、すべては平和と自由、そして国際テロの撲滅のためであるという嘘を真に受けてのことである。しかし自称テロの撲滅者により最悪のテロや拷問、殺人、殺害が行われているということについては、故意に黙っている。いまや、ヨーロッパは真の平和と真の自由が生まれるような枠組みにおいて、独自の軍事同盟を築くときである。だがそれは、アメリカが常に最高司令部を握っているNATOのしがらみから、ヨーロッパが自由にならなければならないことを意味する。世界に平和と自由を促進し、それらを世に広めることは、ヨーロッパの義務であり、使命である。だがそれは、今日存在しているEUの枠内では決して起こり得ない。EUは現在、その馬鹿げた法律や禁止条項や条約と、EU自体に納める法外な負担金によって、全加盟国の市民を苦しめている。しかしこれもまた、ヨーロッパがアメリカから解放されない間は、起こり得ないのである。 本当は今日、地球の人類は非常に未来に希望の持てるエポックに生きており、非常に多くのことについて意識的になっている。多くの地球人はもはや罪ある上層部の人間や国家権力者によって言いくるめられることなく、責任を引き受けている。なぜならば、彼らは独自の世界像と見通しを獲得しているからである。しかも自己責任を全面的に働かせ、すべての人間の真の平和と、実質的な自由のためにあらゆる最良のことをなそうとする。これはすべての戦争扇動者と戦争遂行者が地盤を固めるのを難しくするだろう。ヨーロッパの大部分が戦争から自由になったとき、世界中もそうなるはずだ。現在、ほとんどの紛争はヨーロッパ以外の地域で起きているが、もしアメリカが戦争やテロを遂行している危機地域にEU加盟国が軍隊を派遣して、引き続きアメリカを支援するならば、その状況はすぐに変わるだろう。ヨーロッパでまだ見られる一部の分別ある国民の進化段階は、たとえば最初の端緒に過ぎなくとも、ついに可能な平和と本当の自由の前提を作り出し、宗教を捨てることによって、地球上にある数多くの紛争の主要な原因を封じ込めることができる。それはまだ少数派で、大きな力は持っていないが、この少数派が成長すれば、人間を苦しめて死と困窮と悲惨に追いやる犯罪的な国家権力者や宗教家は、ある日いなくなるであろう。今日の時代にあっては、生命の脈絡を非常に詳細に説き明かす豊富な科学的認識と、理性および悟性と、そして生命の真の法則に関する不可欠の熟考により、ついに進化の道を、平和と自由への道を歩むことが可能なのである。 故郷の惑星である地球の住人として、数十年来実に様々な世界の紛争をその外部の安全なヨーロッパから眺めている人間として、人間がなんらかの誤った歴史的な理由から互いに戦争を仕掛け、虐殺し、憎み合い、追放するのを体験しなければならないのは悲劇である。しかもそれが、『聖書』(それ自体が完全に偽造され、でっちあげられたユダヤの年代記に過ぎない)と呼ばれる書物や、その他雑多な宗教的資料に基づく偽りの歴史の結果であることも稀ではない。幾人かの独裁者や民主的に選ばれた政治家や国家権力者が、今日なお数百万もの人間の死に対して責任があるのを体験することも同様であるが、残念なことにこれは日常茶飯に行われている。彼らは一様に平和と自由に関心があると称している。だが、本当に平和を希求しているのは国家権力者ではなく、何よりも大多数の国民なのである。そもそも通常の理解力と健全な理性を備えた、誠実で分別ある人間が、他人の殺害やテロに興味を持つというようなことがあるだろうか。しかし無責任で傲岸不遜、犯罪的で恥知らずの国民指導者は、自分たちの権力に取り憑かれているので、真の平和と本当の自由を許さない。万人が人間として、個人として、不可欠の勇気を奮い起こして、必要な責任感と、そしてまた真に世界的な平和と本当の自由を追求することに対する明確な意識を育むことが求められている。これは政治や宗教などによっては起こり得ず、ひとえに個々の人間自身の個人的な努力によってのみ可能である。すなわち自分の責任を自覚しているすべての人間は、平和と自由に対する闘いを開始して、世界をより善いものに変え、人間のもとに愛と調和が支配する未来を生み出すことが求められているのである。 草案:ギュンター・ノイゲバウアー、2004年2月 / 推敲:ビリー ページのトップへ 第358回コンタクト(2004年5月6日) プターとの会見 ビリー 次にギュンターと私が書いた記事に関連することを取り上げたい。これについていま私がなおも言いたいのは、イラクでアメリカとイギリスの占領軍が、無力で無実のイラクの男や女や子供に対して加えている性的虐待や拷問や殺人に関して、とうとう公に暴露されたことである。これについて私は、性的虐待も最も卑劣な形式の拷問だと言いたい。そして、そのような堕落行為は昔からあらゆる戦争や類似の出来事で普通に行われたということも言っておかなければならない。すなわち、アフガニスタン、ベトナム、朝鮮、第一次大戦と第二次大戦、そして世界中のその他の戦争地域でも行われたのである。それは今日まで続いているが、これまではすべて黙殺され、解明されることがなかった。私自身もそのような残虐行為を何度か目撃しているので、そうした堕落行為が繰り返し起こるということを誓って保証できる。これに対して主たる責任のある上層部および最上層部の国家犯罪者は、全部の事情を知っているに違いない。だが、彼らは国民に良く見られ、役職を失わないようにするために、すべて否認し、知らないと言い張る。捕虜や自由な市民を苦しめ情報を絞り出すために、彼ら自身が暴力措置を指示するのが普通である。そして国家権力者の手先や拷問吏があらゆる暴力、非人間的で卑劣な行為、そして殺人的な拷問や方法を用いるのは、彼らの野蛮と腐敗の結果に過ぎないのである。このような事実に基づき、いかにイスラム教徒の女や子供や男に例を見ない屈辱が加えられたかを、イラクで起きた拷問と殺人と凌辱の写真が示している。女や男や子供が裸になることを強制され、その状態で辱められ、性的に虐待され、強姦され、殺されたのである。彼らは体と体を鎖でつなぎ合わされたり、犬のように首を綱で縛られて床を引きずり回されたり、性的な変態行為や自慰を強いられたりした揚げ句、最後には自分自身の血と尿と糞にまみれたのである。また別の人々はひたすら死ぬほど殴られ、あるいは踏み付けられたり、電気ショックによって拷問されたり、惨めに虐殺されたりした。それと全く同じことが昔から戦争や革命で当たり前に行われ、すべてが黙殺されたのである。だが今回なんらかの事情により、残虐行為の一部が公となった。しかし、それですべてが終わりというわけではない。事実、すべてのことが瑣末なことのように扱われ、発覚した拷問や凌辱や殺人などは、ごく少数の例外的なケースであり、組織的に行われたものではないかのように言い繕われている。だがこれらすべての堕落や残虐行為は、昔からずっとそうであるように、占領軍が意図的に指示した日常茶飯事に属しているのだ。たしかにいつの時代もそうした堕落した出来事は完全に黙殺されてきたが、にもかかわらずそれらはいつの時代も行われてきたのである。そして殺され、凌辱され、拷問され、裸や性行為を強いられた男女のイスラム教徒について言うと、こうしたすべてのことをイスラム教徒に行った汚れた豚や悪魔のような連中は、これらの人々に対しておよそ考えられる最悪のこと、すなわち女や男や子供たちを、異性の前で素っ裸にして辱めるということをしでかしたのである。イスラム教徒が女性の下着を頭にかぶせられたり、女が男の下着を身につけさせられたりすることは、彼らにとって言いようのない恐るべき恥である。自慰を強いられたり、素っ裸にされたり、互いに性行為を強要されたりすることも同様である。拷問をするろくでなしは、アメリカ人、イギリス人、その他いかなる国の人間であろうが、その呪うべき不遜と傲慢、非人間性と無責任、殺人と拷問の欲望、血と権力の陶酔、憎悪、そして考えられる限りの野蛮と堕落において、自分たちがイスラム教徒に対して何をしたか、そして何をし続けているか決して把握できないのだ。これらの汚れた豚のようなろくでなしは、あまりに低級で愚かなために、真に人間的で尊厳に満ちた思考をほんのわずかでも抱くことができない。もちろん軍隊全体がそんな風に堕落するわけではないということは言っておこう。だが、どんな軍隊にもそうした連中は大勢いる。正規軍の兵士であれ、軍隊ではないが組織されたテロリストであれ、えせ革命家であれ、政治的狂信者や宗教的狂信者であれ、あるいは傭兵やそういう類いのならず者であれ、まったく同じである。いかなる形、いかなる関連における拷問も、破廉恥な輩による果てしない堕落を意味する。それは無力な人間に対する犯罪であり、その人間の尊厳を奪う行為である。拷問はいかなる形においても、いかなる関連においても絶対に正当化されないのだ。 プター 君が語ったことは、それ以上の説明を要しない。実際、記事と合わせて、すべてのことが語られた。したがって、君はすべてのことを事実あるがままに語ったとコメントするにとどめよう。これ以上の言葉は余計だ。 008 Das Altwerden … 老化 Das Altwerden bereitet gewissen Menschen Sorgen und Probleme, und sie weigern sich stur, alt zu werden. 老化はある種の人間には心配事(pl)や課題(pl)をもたらし、そして、彼らは歳を取ることを、かたくなに拒みます。 Viele glauben irrig, sich durch Schmieren und Salben oder durch Schönheitsoperationen schöner und jünger machen zu können, weil sie sich mit dem Altwerden nicht abfinden können. 多くの者たちは間違って、軟膏(pl)や塗り薬(pl)によって、或いは美容整形手術(pl)によって、美しく、また若々しくすることが出来ると、思っています。何故なら、彼らは老化と折り合うことができないからです。 Es sind dies alles Menschen, die sich selbst belügen, nicht wirklich lebensfähig sind und im Wahn leben, nur das Jungbleiben und Jungaussehen erfülle den wahren Sinn des Lebens. それは、思い違いをしており、本当の生存能力のない、また、思い込みで生活し、ただ、若くとどまること、また、若く見えることのみが、人生の本当の意義を満たしているような、すべての人間(pl)です。 Doch was ist wahr an diesem Wahn? しかしながら、この思い込みで、何が本当でしょうか? Wirklich rein gar nichts, denn nicht die proportionale Schönheit und nicht die Falten im Gesicht infolge des fortschreitenden Verfalls des Körpers und des Altwerdens an Jahren ist von Bedeutung, sondern die Erfüllung des Lebenssinnes, der in der Evolution des Bewusstseins und der Erfüllung der schöpferisch-natürlichen Gesetzmässigkeiten beruht, woraus sich wahres Wissen, wahre Weisheit, Freiheit, Harmonie und wirklicher Frieden sowie Freude und Glück ergeben. 実際、純粋にまったく何もありません。何故なら、相対的な美にも、また、肉体の衰えや年月での老化の結果としての顔での皺(pl)にも意味はなく、むしろ、意識と進化と創造-自然の法則への合致性の充たしに起因する、人生意義の充たしに意味があり、そのことから、真の知識、真の英知、自由、調和そして本当の平和や喜びと幸せが結果として生ずるのです。 Was ist denn so schlimm daran, alt zu werden? 歳をとることについて、何が何故そんなに悪いのでしょうか? Nicht das Altwerden ist wichtig, sondern das Wie und Was der Mensch lebt, was er aus seinem Leben macht, was er an Gutem und Positivem sowie an Menschlichkeit und in bezug auf das Menschsein leistet, wie hoch er sein Bewusstsein evolutioniert, wie positiv und gut er ist, wie er mit Fauna und Flora einhergeht und wie er seine Mitmenschen behandelt, schätzt, ehrfürchtet und liebt. 老化が重要なのではなく、むしろ人間が如何に、何を生きるか、つまり、彼の人生から何をもたらすか、彼が善い事や肯定的な事で、また人間性で、そして人類に関して何を果たすか、彼が自分の意識を如何に高く進化させるか、彼が如何に肯定的で良いか、彼が動物相や植物相とどのように過ごすか、また、どのように彼が自分の仲間(pl)を優遇し、評価し、尊敬し、そして愛しているか、が重要なのです。 Also kommt es für den Menschen auch nicht so sehr darauf an, wie lange er auf der Erde wandelt, denn was zählt ist all das, was er während seines Daseins leistetund vollbringt. ですから、人間にとって、如何に長く彼が地上で歩き回るかについては、そんなに非常に重要ではないのです。何故なら、数えるものは、彼の存在の間に、彼が果たし、また成し遂げる物事のすべてだからです。 Auch meinerseits bin ich schon in älteren Jahren und trage graue und weisse Haare auf meinem Haupte, doch hänge ich keinem Wahn von perfektem Schönseinmüssen sowie keinen alten Philosophien und keinen alten Gedanken an, denn mein Leben ist auf das Streben nach oben und nach Höherem ausgerichtet – auf die Evolution in schöpfungsgegebenem Sinn. 私の立場では、私は既に老齢年にあり、そして私の頭に灰色や白い髪の毛を貯えていますが、しかし、私は完璧に”美しくあるべき”という如何なる妄想も、如何なる古代哲学(pl)も、また、如何なる古代思想(pl)にも愛着をもっていません。何故なら、私の人生は、頂上や、より高いものを目指す努力 - つまり、創造によって与えられている意味での進化に合わせられているからです。 Trotz meines Altwerdens bin ich im Bewusstsein sowie in meinen Gedanken und Gefühlen jung geblieben, und ich erhalte auch meine Psyche sowie meine Persönlichkeit und meinen Charakter jungendlich, folglich ich immer für alles und jedes offen und stets gewillt bin, Neues zu erlernen und in diesem Sinn auch in die Zukunft hineinzuleben. 私の老化にも拘わらず、私は意識に於いて、また、私の想念(pl)や感情(pl)に於いて、若いままです。そして私は私のプシケー(Psyche)、私の人格そして私の性格を若々しく保っています。従って、私はいつも、あらゆることにオープンであり、そして常に、新しいことを学び、そしてその意向にそって未来に生きるつもりです。 Durch eine Fügung meiner Eltern bin ich in diese Welt gekommen und führe ein Leben, das mir in allen Dingen angemessen ist, weil ich meine selbsterlernten Fähigkeiten nutze und immer bemüht bin, alles in noch besserer Art und Weise entstehen zu lassen. 私の両親(pl)の運命の定めによって、私は此の世にやってきて、すべての物事に於いて私に相応しい、ひとつの人生を歩いています。何故なら、私は自分の自ら学ぶという能力(pl)を利用し、そして常に、すべてのことを一層より良い方法で発生させようと努力しているからです。 Und wenn auch die Gesundheit nicht immer die Beste ist und Körperschäden gegeben sind, so lasse ich mich doch nicht niederdrücken und nicht entmutigen. そしてまた、もしも、健康がいつもベストではなく、そして肉体の疾患が起きたとしても、私はしかし、意気消沈することはないし、また落胆することもありません。 Stets tue ich mein Bestes und bemühe mich, nicht allzuoft fehlbar zu sein. 常時、私は自分のベストを尽くし、そして、あまりにもしばしば間違いを犯さないように、務めています。 Deswegen fühle ich mich aber nicht allwissend und nicht als Übermensch, wodurch ich auch Fehler eingestehen und mich einfügen kann, wenn ein anderer Mensch über meinem Wissen und Können steht. しかし、私は全知ではないし、またスーパーマンでもないと感じており、そのことによって、私はまた間違いを認めるることができるし、また、もしもひとりの他の人が私の知識や能力を超えて存在するならば、その人を自分にはめ込む「代わってもらう」ことができます。 Findet sich ein junger Mensch, der mich belehren kann, dann nehme ich gerne seine Belehrung an, und wenn er mindestens so geschickt ist wie ich selbst, dann werde ich mich auch zurückziehen und ihm das Metier überlassen. 私を教えることができる、より若い人が見つかったら、その時、私は喜んで彼の指示を受け入れ、そして、彼が少なくとも私自身程に手際よければ、その時、私はまた身を引き、そして、彼に、その専門を任せます。 Auch wenn ich ein älterer Herr geworden bin, kann ich mein Altwerden meistern, ohne Illusionen in bezug auf ein adonisgleiches Jungseinmüssen und Schönseinmüssen, wie das heutzutage bei Mann und Frau im Vordergrund steht und von bedeutsamer Wichtigkeit für sie ist. 私がより年寄りになったとしても、今日、男や女に於いて中心を占め、そして彼らにとって意味のこもった重要なものである、美青年のように ”若くあるべき” 或いは ” 美しくあるべき” ことに関する幻想は無しで、私は自分の老化を乗り切ることができます。 Solche Allüren waren mir zeitlebens fremd, denn ich akzeptierte mein Aussehen und meinen Körper immer so, wie beides gegeben war. 他の人たちのような態度は、私にとって生涯ずっと見慣れぬものでした。何故なら、私は私の容貌と私の肉体をいつも、両者が与えられたそのままに、受け入れていたからです。 Also entstanden mir niemals Probleme des Jungseinmüssens und Schönseinmüssens, denn stets war ich mir meines bewusstseinsmässigen Jungseins und der Schönheit meiner Lebenseinstellung und Lebensführung sowie der Lebensbewältigung bewusst. ですから、” 若くあるべき ” や “ 美しくあるべき ” についての問題(pl)は、私には決して発生しませんでした。何故なら、常に私は、自分の人生形成や生き方、そして人生の克服について、私の意識的に ” 若い存在” や 美を意識していたからです。 Auch war mir immer die klare und deutliche Einstellung eigen, dass sich die Werte des Lebens nicht im Schönsein des Körpers und im jugendlichen Aussehen finden lassen, sondern dass sich diese Werte im Bewusstsein ergeben, das bei mir absolut in Ordnung ist. また、私にとって常に、人生の価値(pl)は肉体の美しさや、若々しい見た目に見つかるのではなく、むしろ、それらの価値は、私にとって絶対的に秩序の中にある、意識の中に生ずるのだ、と言う明確で判りやすい考え方が私に特有でした。 In diesem Sinn fühle ich mich nicht alt und habe mich also auch nie dem Altwerden ergeben, wobei ich auch nicht die Absicht habe, in mentaler Hinsicht jemals alt zu werden. この意味で、私は自分を老齢ではないと感じ、また、ですからまた、私は自分を決して老化に委ねませんでした。その際、私はまた、メンタルな点で、いつかは老いると言う意図ももっていません。 Mein Sinn steht danach, in meinen Gedanken und Gefühlen sowie in meiner Psyche und in meinem Bewusstsein ebenso immer jung zu bleiben wie auch in meiner Persönlichkeit, in meinem Charakter, der Offenheit gegenüber dem Neuen und der Zukunft, wie aber auch in bezug auf das Lernen, das Verbreiten der Liebe, das Wissen und die Weisheit, wie mich dies das Leben umfänglich gelehrt hat. 私は、次のような気持ちでいるのです。即ち、私の人格に於いて、私の性格に於いてと同様に、私の想念(pl)と感情(pl)に於いて、そして私のプシケー(Psyche)に於いて、また私の意識に於いて、若くあり続けると言うこと、また、新しいことや未来に向かって、しかしまた、学ぶこと、愛、知識そして英知を広げることに関して、そのことが人生について私に広範囲に教えてくれたように、オープンでありつづけると言う、気持ちです。 Natürlich weiss ich, dass auch für mich eines Tages die Stunde des Dahinscheidens schlagen wird, doch sehe ich dieser Zeit gelassen entgegen, weil ich weiss, dass ich mein Leben in stetiger Jugendlichkeit und in bestmöglichem Masse der Erfüllung der schöpferischen Gesetze und Gebote und damit auch der Bewusstseinsevolution erfüllt habe. 当然、私は、ある日の私に、この世を去る時が到来することを知っています。しかし私はその時を冷静に待ち受けます。何故なら、私は私が自分の人生を不断の若々しさで、また可能な限りの量で、創造の法則(pl)と掟(pl)の満たしを、また、同時に意識の進化を満たしをなしてきたことを、知っているからです。 So wird mich der Tod trotz des Altwerdens des Körpers in bewusstseinsmässig jugendlicher Stärke ereilen, und zwar in der Gewissheit, dass ich keine Sekunde meines Lebens zu bereuen habe. ですから、死は、肉体の老化を無視して、意識的に若い精神的な強さの内に、とつぜん私を襲うでしょう。つまり、私は自分の人生の如何なる一瞬をも悔やむことは無いのだと言うことは、確実です。 Semjase-Silver-Star-Center, Hinterschmidrüti 2. Juni 2005, 16.45 h Billy HinterschmidrütiのSSSCにて、2005年6月2日 16.45h ビリー |