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超自然的なカについての重要な一言

 超自然的な力は人間によく知られているが、それは二つの水準に分ける必要がある。

最初の水準は、粗粒子の世界の外側の出来事であるため、異次元のものと見なされる。それはつまり、この超自然的な力が、粗粒子の世界に生きる人間の眼には見ることも掴むこともできない水準から発するものであることを意味する。

この超自然的な力は、人間には見えないヴェールの陰にあってメンタルな形態として把握できるものであり、もっぱら微粒子的および非物質的な水準にある力だ。しかし微粒子的および非物質的であるのは、それが人間の粗粒子の世界とは時空がずれた世界に属するからである。

地球人の眼では見ることも掴むこともできない、この水準は非常に多種多様であり、過去にもまた未来にも存在するが、現在の領域にもまた存在する。

タイムトラベル能力を持たない生命体が、地球人に敵対心を抱いて、物質的形態で地球に出現しない限り、地球人はこれらの水準からの勢力や権力をまったく恐れる必要はない。これらの水準からの超自然的な力が、人間に危険を及ぼすことは決してない。なぜなら別次元への移動を不可能にする障壁が形成されているからだ。

唯一の可能性としては、異次元の生命体が物質的形態で地球人の時空層に侵入できた場合、物質的なタイムトラベルによって危険をもたらすことがありえる。


 地球人には極めて危険なものとなりえる超自然的な力の第二水準は、死や破滅さえもたらしかねないものであり、地球人自身のプシケ(Psyche)の領域に巣食うものである。

人間を危険に曝すことも可能な、この超自然的な力は、人間自身が作ったものであり、人間がその発動を強いる。それは人間自身の思考から発し、狂信、宗教やセクトの妄想、そしてその他の妄想という形態の幻覚が人間を絶望的に支配する。

妄想によって人間自らの内部に生成された存在の力は、上記各種の形態で顕現し、放出することによってしばしば可視の形で人間に投射される。人間が生み出したこの存在の力は特有な自我人格を形成し、この人格はその内部に、生みの親の隠された願望や迷妄的な幻想を宿し、ぎっしりと詰め込む。

人間が作り出したこの仮想の存在は、実は人間の潜在意識に隠された痛切な願望と狂信と迷妄に他ならない。生みの親の想像力によって、それはあまりにも激しく制圧的になり、当の人間の物質的意識を支配することもありえる。

特に精神不安定な人間は自分自身が作った仮想の存在に支配され、この存在の持つ超自然的な力に従ってしまう。真実を認識していないがゆえに、自分の内部に自分で作り上げた仮想の存在を、アストラル体とか異次元の生命体とか称し、それとコンタクトできると言うのだ。

このような力の存在を作り出してしまう人間は、往々にしてそれとコンタクトできると称し、いわゆる自動書記や音声の聞き取り、その他多くの現象を通じて、仮想のコンタクトやコミュニケーションを行ったと言い張るために、虚偽はますます強化される。

この種の幻想を抱く人間はことごとく現実離れしており、仮想の世界と仮想の状態の中に生き、死者の文体や発声さえ模倣できる。しかし根本的には、その種の人間の最奥の存在と最も内なる願望はひどく分裂し、そのため実際上、自分自身の内部の虜囚となっている。

彼らは決して、外界に対して自由に振る舞うことができず、自らの最も内なる願望や感動を外界へと提示することはできない。そのような束縛は、最も内なる願望や衝動や常軌を逸した行いなどを、彼らの中で根深い権力の塊へと変換する。

それは自らの存在の力、すなわち自らの存在となって、仮想的存在とのコミュニケーションを求め、抑圧された願望や衝動などを外部へと、そして人間の物質的意識の内部へと放出する。

人間自身が作り出したこのような仮想的存在の持つ超自然的な力はしばしば非常に強力で、当の人間はこれに全面的に支配される。この超自然的な力は最終的には、それを生み出した人間がコンタクトを求めなくても、自ずから働きかけることで持続的接触を存立させるほど強力になる。

このような力や存在を作り出し、それとコンタクトすることには特に、非常に大きな危険が伴う。この水準にある存在は、進化的で創造的な人生における真の目的に対し、敵意を抱いていることが多い。なぜならその人間自身も真の人生や真の教えに対して敵対心を持っているからである。

その種の仮想的存在は生成後わずかなうちに早くも、その生みの親、そして共に誤った道を歩み求める人間とのコンタクトを自ら確立し、力と超自然的な体験を彼等に提供する。だが、それによって、この人間は真理の道や論理からさらに遠ざかり、間違った方向に導かれるだけでなく、仮想的存在に最終的支配権を握られ、その目的のために自分を占有させることになる。なぜなら、この超自然的な力が人間の物質的意識を支配するようになるため、間違った存在形態や存在の力が最終的に人間の自己思考や自己行為となって自らの目的を追求するようになるからだ。


 すぺての地球人は例外なく、多少とも宗数的影響下、さらには厳しいセクトの影響下に置かれているので、それらの効力が潜在意識まで深く浸透しており、人間が自ら作った仮想的存在はしばしば神の権力、天使、イエス、キリストあるいは単に信心深い生命体となる。

そして非現実的で間違った影響、言明、示唆などを通してその人間を惑わし、真の霊の教えを歪曲し、恭順で信心深い生活を要求する。そのような仮想的存在からは神の名のもと、そしてセクトや宗教の名のもとに、空想的な誤った教え、混乱、さらに殺人命令さえも打ち出される。

それらは通常、命令形で生みの親へと伝達され、生みの親はそれを遂行させられるのだ。この事象全体において非常に危険なのは、自らの受難者にならないような抵抗力を持った人間はほとんどいないということだ。

なぜならすべての人間は隠された願望や衝動を担っており、それらを不適切に取り扱うと、そのような仮想的存在や仮想的な力が創成され、その超自然的な力を当の人間に及ぼす可能性があるからだ。

したがってこれは、神秘的生活における主たる危険となるため、すべての人間は常に万全な注意を払うべきであり、霊の教えに正しく厳密に従うことが要求される。とりわけ間違った瞑想を通して、そのような形態の存在が人間の内部に生まれることがあり、人間が作り出した内部の超自然的な力を人間がコントロールできなくなると、その種の存在は遅かれ早かれその人間に対して影響力を持ち、絶対的権力を振るうようになる。

特に瞑想には、とりわけ間違って適用されたり、誤って行われた瞑想には、この種の危険が伴うので、極めて正確かつ綿密に、指導に従って瞑想修練を行うことを勧める。

(抜粋した原本を忘れました・・・H.Thoma)

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プシケー(Psyche)の衛生

これは純粋なる医学的観点から見るかぎり。衛生法に関して必要なものです。

同じく一部は、医学に属する更に重要な要因が人間のプシケー(Psyche)の中にあります。

精神の衛生は医学的衛生と同じく非常に重要です。

根本的には、精神の衛生法は、肉体における場合より、その利用がとても困難です。

何故なら精神は純粋物質体を所有せず、物質体と同じように管理されたり、処理されたりし得ないからです。

精神の衛生管理は、この理由から非常に困難で厄介な問題であり、それは特別な指導要綱や使用形態が要求されます。

しかしこれに関してはFIGUによる書籍「プシケー(Psyche)」をご覧下さい。

そこには精神の衛生について完全に述べられています。

精神の衛生は、成人に成って始められるのではなく、既に幼児時代に始まります。誕生直後からです。

最も重要なことは、その時、次の配慮が為されることです。

つまり新生児は病院では残念ながら日常とされていますが、母親から離さないで、母親の側に置かれるようにすることです。

これは新生児にとって、新たなる人生開始における最も印象的重要な精神の衛生過程と成ります。

精神医学は、人間の精神を管理するのに、混乱するばかりの多くの助言を子供や大人に与えています。

多くの助言は非常に役立つものですが、他は人間の精神についての無知、無理解、非認識によって助言されています。

精神に関して言える根本的なことは、次の事柄です。

まず第一に、家族は最も価値のある、他では埋め合わせされない避難所を示しています。

そこは最も信頼のおける安全な場所として、出来るだけ良い確実性を提示します。

そこは特にひどい負担が生じた場合に、大きな精神的打撃を受けた時の期間中の安全な安らぎ場所となります。

重大な負担とは、障害をもたらす人間関係、恋の悩み、隷属性、社会的経済的打撃、又病人や故人に対する悲しみ、苦しみ、心配、そして戦争や革命の勃発、良心の呵責があげられます。

そして忘れられてならないのは、宗教、宗派の唱える誤った教義によって広く普及し、心理的暴力を与えられている不安や良心の呵責です。

何故なら、人がある程度普通に健康で、責任感を持って生きようとする時には、不誠実なドグマや自称神の規約を必然的に軽視せねばならないからです。

これらの負担、精神的打撃は、根本的には家族の初源的協同性、そして人間の精神を破壊する方向に向けられます。

今日、少なくとも子供の教育、しつけに関してですが家庭で、多くの援助がなされます。

幼稚園や学校も宗教的管理統制を行わず、強制的非合理的教育方法や教えをとらなければ、それらの組織は、それらの援助の一つに数えられます。

幼稚園、学校、寮、その他価値にある援助が、人間に必要なってきました。

それらを通して、家族に配慮され得ない多くの教育と就学の義務が達成されています。

家族そのものは別の負担を受け持ち、自ら新時代の混乱に対処していかなければなりません。

例えば生計を立てること、市民としての義務履行、兵役の義務履行、自由時間を用いる必要のある追加労働等です。

幼稚園、学校、寮等は、しかしながら決して家族に取って変わる事は出来ず、許されもしません。

そのことは明らかなことです。

最も優れた場合で、それらの組織は単なる家族的補いとなる働きをすると言うことです。

家族的世話は特に幼児に必要で、乳児には特別に欠かせません。

この時期に心理的欠陥教育がなされると、成人してからはもはやほとんど修正されません。

あらゆる修正の試み、障害児そのものと外的影響に因る試みも、しばしば皆失敗しています。
 
赤ん坊特に乳児は、誕生後既に家族による完全な注意を必要とします。
 
全ての点においてです。

その時、母親だけが主要な意味を持つのではなく。父親、兄弟姉妹も重要な意味を持ちます。
 
昔は知ったかぶりをする人々により、莫迦げた事が主張されました。
   
(この主張は今日でさえも非理性的な人々により固執されています)

つまり特に乳児は、最初の月はそっとしておき、授乳し、おむつの取替え、入浴等の日常的な世話を十分しておく。
それ以上乳児とのかかわりは、ただ障害となるだけであるから、と。

あらゆる種類の刺激、乳児と語りあったりすることは、そもそも何も判らない乳児にとって障害となる‐と言う意見は、今日ですら一部信じられています。

しかし事実は、乳児-正に乳児こそ、成人と同じくあらゆる種類の刺激と会話を必要としているのです。
 
それが十分に為されると、精神の衛生管理は最善に助成されることに成り、人は花咲きます。

何故なら彼は正に注目を受けるからです。

彼の精神は正しく機能し、負担を受ける汚辱から解放されます。

 そうしてやましくない衛生的な精神の状態が築かれるのです。

既に成人に達した大人も、自ら自己教育を果たすことが必要であるごとく、乳児や子供も家族による教育が非常に重要な役割を演じてきます。

家族教育とは、二重の機能を持っています。そこには2つの異なった重要な課題が含まれているからです。

第一に家族教育により、子供に与えられている全ての素質の発展が保証されること。
 
第二に子供に人生と真実に対する責任を意識させること。

それによって子供は、やがて訪れる将来、人間の万象、動植物、惑星、宇宙、世界の中で生き、順応する能力を得ます。

今日、正にこれら全てが法外に複雑化していますから、現代世界に生きる人々は、自然の法則と掟に多様に違反せざるをえなくなっています。

少なくとも現在の地球の思考処置は、非常に互いの配慮と寛容を必要としています。

そうでなければ生命維持が出来ないでしょう。

これらの事実が、成長する子供に早くから十分に納得され理解されていなければ、中途下車を余儀無くされる欠陥装置を作る結果になってしまいます。

特に人間の幼児期は驚くほど利己主義です。

隣人と何かを分けたり、諦めたり、互いに平和的生活を送るということは、この利己中心的な時期に、しばしば地獄の苦しみとなります。

この学習がうまく為されず不十分に処理されたなら、これは成人する大人にとって、もはや近い将来、環境と自分自身とうまく折り合いを付けることが出来ず、絶えざる交戦状態にいることになります。

即ち幼児期に早くから誤った不十分な教育を受けた者は、大抵自らにも健康な自己教育か与えられません。

そうして彼は自己中心となり、利己的に、絶えず自分の利点のみを求めることになります。

彼の全貌は非衛生的に、それに応じた不潔さに覆われており、ほとんどそれを取り除くことは出来なくなります。

彼がいつか何かの状態を通して独立し、鉄のような意志を持ち、全てを変化させる以外は。

しかしこれは稀なことで、1千万人の内、もしかしたら1人はそれを出来るかも知れません。

家族が、成長する子供に精神に障害と成るような衛生法を避けようとするのなら、無限の忍耐を持って教え込む義務が、絶えずしつけを通して行われなければなりません。

成長する子供には既に若き頃から、完全なる注意深さが贈られねばなりません。

そして全ては絶えざる忍耐を持って、重ねてしつけるように教え込まれねばなりません。

教育は暴力行使ではなく、全ての点で愛を意味します。

人間の教育は容易ではなく、子供の教育、成人の教育又は自己教育も同様です。

人は誰もが自然な、或る時期に順応されています。子供もそうです。

この時期に特別な特性がもたらされ、人はそれによって全く一定な方法で行動を取ります。

例えば幼児が約3才半になったら、これは彼が全く選り好みをする時期に入ったことを意味します・・即ち反抗期に。

人によって反抗期は早くなり、既に3才、又は2才半で反抗期に入ります。

しかしこの時期に与えられる教育は、又決定的な役割を演じます。

反抗期は次のようにしてはっきりしてきます。

つまり今まで習得する気があり、正しい行動を取っていた子供が、学ぶ意志と正しい行動性に反抗し始めます。

そうして教育が困難となってきます。

突然従順さが無くなり、強欲になり、何かを言っても大人には説明しがたい理由から駄々をこねるようになります。

こうして無知で忍耐力の無い家族の者は、しばしばまだ小さな駄々をこねる赤ん坊に、ありとあらゆる教育的策略を試みるようになるのですが・・それは決してうまくいきません。

多くは、怒り又は単純に暴力を用いて、どんな場合にも言うことを聞かぬ、きかん坊の意志を挫いてやろうという誤った考えを持ちます。

当然駄々をこねる小さなきかん坊は、しばしば大人をカンカンに怒らせますが、その時、大人そのものも精神における衛生的欠陥を示すことになります。

大抵その欠陥は、自分自身の幼年期に生じたものです。

子供が反抗期に達すると、新しい教育的策略、処方、暴力、又は善意なる徹底した処置も役に立ちません。

反抗期における子供が言うことを聞かない・・その反抗は全く自然なものなのです。

これはどんな子供も自分の意志を貫き、独自の意志を持つ能力を感じる時に始める、一つの行動方式なのです。

自然に応じてこの能力は、この能力を他の者と同じように行動に移そうと言う必要性を、子供の中に生み出します。

この理由から子供は、反抗的に駄々をこねるこの能力を行使するのです。

従って反抗期とそれに結び付いた反抗性は、自然の成長段階で、自然な成長過程を示しています。

それは暴力によっても「賢い教育的策略、処方」によっても第三者の忠告による「善意なる処置」によっても感化されず、抑制もされ得ない事です。

従って大人にはしばしば不可解な、反抗期における子供の態度は、理解するべき自然な基礎なのです。

たとえ子供が、大抵何か目的を持ちながら、自分の態度に全く一致しない事をしていても、子供は或ることを望んでいるのです。

つまり自分の意志を持つ能力を貫徹させる必要性を、練習しようとしているのです。

これは教育者全てが過度の教育熱心、暴力、「処置の勧め」を意のままにするのを警告するものです。

唯一の正しき処置は次の事柄です。

子供に対して大人自身の願望を制限し、子供に自分の能力を行使させる。

その際、子供を助けるよう子供の側に立ち、自己の意志に対する責任とその意義を説明する。

たとえ子供がまだ若くても、子供は理解し始め、その意義に従って行動を取るようになる。

その時条件となるのは、子供に愛を持って、又愛において子供を取り扱い教えることで、子供もそれを理解して反応します。

日常的範囲の度を越えるほどの大声で、ひどく堕落した反抗児を叱るのも、望ましく効果が働きますが、それも条件があります。

先に述べられた総合的教育が、自然で、愛に満ち、絶えず怒鳴り散らすこと無く行われてのことです。

反抗期の子供が誤って教育されると、例えば間違った教育、暴力、殴打、激しく叱ったり怒鳴ったりして育てられると、次のような結果をもたらします。(これは他の教育機関においても同様です。)

つまり、かたくなな心が形成され、意識的な防衛として、即ち外部から反抗児にもたらされる全てに対する防衛として、違反、不実、嘘等の現象が現われてきます。

こうした態度か子供の心の中に深く刻まれ、更にその心の内部に広がり、いつかそうした性格の持ち主となってしまいます。

子供は残りの人生も、老年に至るまで、そうした性格を持ちながら生き続けねばならなくなります・・意に反して。

健全なる形で何等同胞的な関係を持たず、しばしば憎しみに満ち、専制的でテロリストのような人間の敵と成ります。

いわゆる子供部屋は、子供の成長期に取って最も重要な点の一つです。

子供部屋は、生き方、又後の自己教育に関して成人の全生涯を決定します。

子供部屋は人間の場合、習慣を築き、更に彼の意志、処置を一定の方向、形に形成します。

習贋、日常性は、例えばしばしば教育的模範によって成立します。

それは教育される者によって手本とされます。

その為に決定的となるのは、子供の非間接的教育者、又アイドル、願望です。

その時、成人する子供の特性に寄与する性格が。既に形成され始めます。

教育者(一般的には両親)によるいろいろな様式、愛の与え方、表現は、大きな意味を持っています。

又仕事の片付け方、話し方、隣人関係、世界観、その他も同様です。

その際、同じく重要なことは、精神の方向形態、個人的身体を清潔に保つ形式、教育者、自発的-非自発的共同教育者の台所の整頓、居間、寝室、地下室、周囲、環境、仕事場等の秩序です。

その時忘れてならないことは、テーブルマナー、人間関係、人間的な協同生活の形式そして怒り。激怒、喜び、悲しみ。苦境等における態度などです。

大抵の人の精神的性格的衛生法は、露骨に軽視されています。

又成長する子供に取って、又は十代半ばの人にとって、教育的形式に意味を持つ人々の性格的心理的衛生も軽視されています。

彼等は模範として、成人、もしくは更に成長を遂げる人々に作用します。

真に事実は、こうです。

つまり例や模範は。成長する子供、成長段階にある全てにとって、非常に高い意味を持っており、いわば否定的。肯定的な意味でも、又善にも悪においても、そうです。

教育能力を持つ者としての範例、模範は、法外な魔力を示します。

成人の教育形成における真の魔術を。

その作用は更に、全ての書き言葉、話し言葉。暴力。殴打、小言、監禁、喚き、激怒、罰等どんな種類のものであろうと、それらを凌駕します。

心理的衛生法において非常に重要な点は、これです・・笑うこと。

子供はありとあらゆる全ての機会に、よく笑うのを好みます。

たとえまだ幼い赤ん坊、乳児であっても、彼等は喜んで気楽に笑います。

彼等は全ての機会を認知し、笑いを世に敷き散らします。

しばしば大人は。子供が何故笑うのか理解出来ません。

そして彼等は激怒し、頭を振ります。

しかし子供の笑いは。もっと健康な精神の衛生に起因しており、それは理解の無い大人に失われているものです。

ですから大人は、僅かな取るに足らぬ事柄にもはや笑う根拠を見出しません。

これは子供にはまだ、保たれているものですが、これがきっかけの単純な理由と言えます。

成人は子供と共に笑う代りに。単に子供を笑います。

そうして成人は、自分の不完全さと精神の衛生的不潔状態を示すのです。

同様に、該当する子供の側にいて、彼の質問と観察を、単に愉快であるという理由から、更に笑い話に語り継ぐ成人全ての態度は、単純であり、衛生的不潔さを生み出すものです。

側にいる子供は、その時ショックを受け恥ずかしがります。

何故なら子供は。自分の質問や観察を真面目に考え。信頼して申し立てたからです。

そうして大人は、子供の質問、観察を、彼の前で公にし、他人に無遠慮に説明し話してしまうので、子供は大人に託した信頼の裏切りを感じるのです。

子供の側から見れば、そのような場合における大人の態度は理解出来ず。

卑しめであり、恥ずかしく、背信行為なのです。

子供は成人のように、その様に取り扱われるべきで、そうされねばならず、そう望んでいるのです。

子供は、大人の様に完全で真面目な態度を取ることが出来、大人の様式でそれを正確に行おうとします。

子供達は大人に笑われるよりは、同等な人間として認められることを望み、その義務があり、そうされねばなりません。

又最も小さな子供達の内にも、自分の価値を求める努力がなされています。

それが重んじられねばならないのです。

たとえ多くの大人達の年齢に至るまで、この事実に気付き、認識出来るほどに成長しておらず、十分に円熟していなくても‥・そうなのです。





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