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001  OM-42 その1

 1. 創造、知恵者、義人に名において。

 2. 創造に讃えあれ。創造は鮮明さである。

 3. 予言者は、多くの事柄について鮮明に語る。そして人がそれを修得し把握するようにと。

 4. かなりの者が、すでに決して古き誤ちに陥らないよう堅く決心した。

 5. まことに彼らは、自分自身に対する注意と熱心さに欠ける事は無い。

 6. ひとりでに次第に全てが再び作り上げられ、あれやこれやは消滅する。

 7. 全ては、絶えず既に勝利者であることを信じていた。そしてついにどんな誘惑にも対抗できる程、十分に強いと信じた。

 8. それ故、彼らは再びなげやりで、呑気で、不注意になった。

 9. しかし見よ。これが、既に彼らが古い害悪に新たに征服され、古き道に陥った理由であった。

10. 意識的に継続して、絶えず害悪に対する目覚めた戦いが無い限り、いつもそうである。今日もそして明日も。

11. 小さな成功に達すると、人間は余りにも素早く再び不注意になる。何故なら彼は、変化が成就する前に、既に初めの変化に喜んでしまうからだ。

12. そうして人間は、絶えず再び自分の失敗に克服される。正に最も断固とした決意をしている時、又害悪を、自己の中で完全に抹消しようとしている時に、そうである。

13. むらがあり、弱く自分自身に感銘を覚え、それ故自己を過大評価する者は、いつも自分を偉大であり強いと信じている。その時。彼は自己の実質的な弱さを見逃している。

14. 彼は自分自身の人格の知識が無いため、展望と力も無く、自己の欠点を実際に認識するあらゆる自己認識と可能性も、彼には欠ける。

15. 従って彼は、善と悪に対する愛着が自分自身の中に住み、自分がそれに対する独自の支配者である事を認識する事が出来ない。

16. ああ、これらの弱者の弱さは何というものだろう;人間は何と弱き者であろう。

17. 彼は酔っているように何をして良いか分からないかのように、時々何という独自の納得に反対する行動を取るだけなのであろう。

18. どうして彼は、最も崇高な意志を持ち、同時に、最も悪い行動を取ることがあるのだろうか?

19. 次の様に述べている古い言葉が、何と当てはまることであろう;「私は何をするべきか判らない。何故なら私は、自分のしたい事をするのではなく、私が憎んでいることを行っているからだ。」

20. 人間の中には、2つの霊体と2つの意識体が住み得るという、倒錯思考を生み出すこの矛盾は、一体どこから来るのだろうが?

21. いわば善と悪の霊、又はデーモンに交互に支配されるという倒錯思考が、無知な者に生じるのである。

22. しかしそれは何という無意味と無知であるのか。何故ならどうして人間は、自分自身からは何も出来ない、意志の無い道具であるはずがあろうか?

23. 誠に人間は創造により、この総合的中立の力に対する自由意志を、自由任せられている。彼だけが独力で、否定又は肯定に変化し、それに応じた力を利用するのである。

24. 彼はその力をただ多様に否定的に用いる為、調和を作り出すことが出来ず、ただ否定的なものに流される。従って彼は、他の外的状況によって、意志も無くあちこちに動かされるのであって、舵やかいを無くした船が、暴風に流される様である。

25. それによって倒錯者に、次ぎの思いが浮かんでくる。彼は窮極的には、自由意志の無い存在であり、精霊やデーモン、善悪の力に支配されると。

26. 自由意志の無い人間、そして余所の力や暴威の奴隷とは?

27. 事実そうであるなら、どうして人間は自由意志を決して持ったことが無くて、そのような表象が出来るのであろうか?

28. 彼が不自由な意志の力を持つ奴隷なら、既に自由意志という表象のインパルスは、萌芽のうちに摘み取られてしまうだろう。

29. 自由という言葉が、彼には未知なだけなのである。加えて意志の概念がそうであることは言うまでもない。

30. 彼が、何ら自己決定をしなければ、自己決定をする或る一定の意識は、彼にとって何の役に立つのであろうか。

31. まことに知識のある人間は、やはり次のことを知っている。彼が何を選ぼうと、何千という事物の中で、全てがただ彼に依存していると。

32. ただ人間である彼が欲し、忌み嫌い、優遇したり、冷遇したり、吟味し決定する。そして彼は自己の意志の自由を感じる。

33. そして彼は、役に立つものや、自分自身にとって非常に不快なものを、いつも納得して自分で選ぶことが出来る。

34. この事実は、既に昔から、 又原始の時代から、最も知恵のある人間の注意を促した。

35. まことにこの事実は、今日、又明日の人間にとっても威厳がある。

36. そのような考察は、人間にとって並みはずれて教訓的なものであり得る。そしてそれは、全内的平安と平和と幸福にとって、重要なことであり得る。

37. そして人間がいくらか注意するなら、彼は毎日、次のことに気付くのである。肉体は如何に大きな影響を、意識とプシケの状態に与え、肉体は如何に霊に依存しているかを。

38. しかしこの依存性は、どの程度なのであろうか。そうあるべきで、そうならねばならないのだろうか。又、何故そうであらねばならないのだろうか?

39. この様に投げ掛ける問いは、人間の満足のいく答への欲望をそそる。

40. 誠にこの謎が解ければ、人間の自己認識の為に重要な寄与と成ろう。

41. しかし、どの様にして人間は、彼の性質の闇の秘密を解いてくれる、そのような光に達するのであろうか!

42. 人間の性質だって?
一体人間は1つ以上の性質から或ることを、知る必要は無いと言うのだろうか!

43. まことに人間は、霊と地上的本質の両方から成り、腐敗するものと、腐欺しないものとから成り立っていることは明らかである。

44. 何はさて置き、人間の肉体は完全に地上的な粗物質から或っている。

45. 彼はこれらの粗物質を、一部彼が摂取する食物から、一部肺と、皮膚の表表面で呼吸する空中から得る。

46. 空気は、動物、植物、石が生じる、あらゆる純物質の偉大なる無尽蔵の貯蔵室である。

47. だから人間は、例えば次のことを知っている。つまり鱗茎植物(玉ねぎやユリ)を、野外の空中に吊るしておくと、それは栄養分の大部分を自由に空中から吸収し、若芽を出し成長する。

48. 多くの草木や植物の主要養分である水は、暖気によって蒸気化し再び空気になる、非常に濃縮された空気に過ぎない。

49. 空気は、雨、霧、しっとりと濡れた露、雪として再び地に沈下し、草木や植物を養う。

50. そして全ての生命は、地上の変形体と組織から成る。だから動植物や人間の肉体は、生命が尽きると再び地に戻るのである。

51. だから全て地上のものは、地上的と言って当然なのである。物体に関して、地上的なものは全て地上の法則と掟のもとにある。

52. 人間の肉体は、他の全ての物体と同じようである;それは重たいが浸透し、壊れやすい。

53. まことに霊ですら、それについて何も変化させることは出来ない。何故なら、この法則と掟は人間の肉体の一部であり、人間は最も質素な石のように、それに順じている。

54. 人間は、この法則と掟を尊ばねばならない。まことに彼は、自分の肉体をそれらの威力から守ることは出来ない。

55. 自然の法則と掟は、創造世界における創造の命令である。それによって全ては、活動、生命、均等が保たれる。

56. そうして物体は他に浸透し、それと混合し、何か新しいものを生み出すことが出来るようにもなっている。

57. こうした根拠から、人間には見掛けは死んだように見える自然界に、多様性が生じるのである。

58. この一見死んだように見える世界によって、全能の創造は、素晴らしい力によって生命体を拡大された。

59. この力は全ての塵に浸透し、それに相応する地上物質の全てを統合させる。

60. この力は、相応するものから新しい形熊を形成する。それは完全に新しい種類のものであり、以前には無かった。

61. こうして植物や動物から新しい形熊が生じる。永続し連続的に。

62. それらと生命が結合するとそれらは成長し、繁茂し、増殖し、繁殖する。それらは全て自分の種類により、創造によって与えられた、全く特別な法則によっている。

63. 植物や動物から生命が離れると、それらは再び以前の姿に戻る。

64. 生命と結合する以前、それらは土嬢であり、土の塊であり、風化し、分解し、消滅する塵であった。そして植物や動物の崩壊により、再び成るものであった。

65. しかし人間も、あたかも植物や動物のように生命機能と結合するまでは、一点の塵であった。

66. それは塵が生命の機能に包まれ、成長し、そこに生きる生命体が、外部から絶えず多くの栄養素を吸収し、それぞれ、その形態と種に応じ、創造の永遠の法則と掟に従って形成する限りのことである。

67. こうして、空中、水、土の物質は、絶えず見掛けは新しい物質に変化する。それらは真実には悠久であり、一体である。

68. なるほど絶えず新たな結合と組織が形成されるが、成分は同じである。

69. そうして同じ地上には、カシ、モミ、葡萄の株、有毒性灌木、花、草が一緒に生育する。

70. これら全ての植物は生命体に応じ、又創造の法則と掟に応じ、同じ土、空気、水を養分として、それらの内で変化し、又、木、樹脂、苦いつやのある樹皮、果汁、薬汁、薬毒、薬臭のような異なった事物に変化する。

71. これら全ては、生命体が再び植物から離れるや否や、再び沈下し、腐り、地に戻る。

72. しかし植物や動物を生かしているこの生命体、この力とは何であろうが?

73. まことに人間の中には、自らの中に理性と悟性を隠し、進化している発達可能な霊が存在している。

74. これが力と悟性に満ちた霊であり、その力を進化させ多様化させ、宇宙-電磁の生命エネルギーにより生かされ、動かされている霊である。

75. 人間の中にある霊は、創造霊そのものの一部であり、進化能力があり、理性の賜物を持ち、創造的である。

76. 植物や動物の中にある生命体は別種で、人間の中にある霊体とは根本的に異なる。

77. 植物や動物の中にある生命体は、純粋な霊力で、理性を蓄える可能性は無く、本能と自然の衝動のみに従って生きている。

78. それは進化の意味ではなく、唯一本能を生み出すことによって存在する意味で、霊体である。それには本来一連のインパルスが内在している。だから植物も動物も、一定の調教行為の繰り返しによって、仕込み易くなることが可能である。

79. しかしこれらの霊力は、人間の霊体の様に意識的に更に発展と進化し、自己形成する能力が無い。

80. 即ち植物や動物は、意識を自由に処理するのではなく、本能を自由に処理するのである。

81. 人間と違ってその霊体は、意識を持って意識的に生き、結果的に意識的な記憶能力を示す。

82. まことにどんな地球人が既に次のことについて知り、それについて思いを巡らすであろうか。即ち危険な植物の毒と美味な桃の汁が、全く同じ元素から或っていることを。

83. 又、どんな地球人が次のことについて熟慮するであろうか。即ち動物、植物、人間の肉が、同一の元素から或ることを。

84. しかしそれについて人間が熟慮するなら、彼はその生成と消滅により、それについて教えられるであろう。

85. まことに人間は、この創造の驚異的な作品を洞察するであろう。

86. そして誰が、想像を絶する創造の驚異的作品の全てを、疑うことが許されるだろうか。彼は日々その目撃者であるのに!

87. まことに初めは人間も、単なる植物のようにしか観察されない。何故なら人間は霊気を吹き込まれ、真に認知され、それから差当り世に生まれるまで、初めの3週間は、全く植物以外の生命を持たないからである。

88. 即ち人間も、まず一様な植物の生命のように生きている。その生命は、創造の法則と掟に従って栄養素を取り入れ、消化し、変化する。

89. 即ち最初の3週間は、生成された子供の生命は、単なる植物的存在にすぎない。

90. なるほどそれは呼吸し、養分を吸収し、成長し大きくなる。しかしそれはまだ、霊体によって霊気を吹き込まれていない。何故なら霊体は、先ず21日目に微小な体を意識生命で満たすからである。一方、それまでは純粋な自然力によって霊体の生命活動は促される。

91. 母胎の中で生成された子供の肉体と四肢は、ゆっくりと生成され、全く石灰から或る、よりきめの綴い粗い堅い部分である骨が成長する。

92. 骨は、いわば粉砕しやすい部分から成り、体液や血液と合成され、繊維、管、組織、血管等から或る、より緻密な物質の担い手であり保持者でもある。

93. そうして骨は、肉の担い手であり、これは再び神経として、全ての方向に身体を貫いているより繊細な部分の、担い手であり保有者と或る。

94. 神経はもっと繊細で、人間の目には見えない組織の担い手であり、保有者である。その組織は、それ自体に組織を形成している。即ちそれは神経組織である。それは終局的には、人間の胸部に集中している。

95. 神経によって人間は、彼の内外にある粗い全てを認知する。そして彼は、全ての粗い苦痛と、快い感情の印象を愛け取ることが出来る。

96. 神経組織は又、人間の内外にある粗い緻密な要素も認知する。そうして彼は、全ての繊細な痛みと快い印象を受け取る事が出来る。

97. 神経組織は、組織がアンテナのような働きをし、霊域からすべての緻密要素を感じ取り、受信出来るという意昧で、霊体領域とも結び付いている。

98. そうして、より繊細なもの、より高尚なものは、いつも粗いものの表面を漂う。即ち霊は物質意識の上を、プシケは肉体の上を。プシケもやはり驚くべき方法で、霊と結び付いている。

99. 誠に創造の秩序は、全ての生命の中に在り、不可侵に存在している。そしてそれはいつも同じである。

100. 人間がこの秩序のほんの僅かな変化でも企て、それに対して最も僅かな争いでも起こそうとするなら、それは全身の病気と破壊の原因となる。

101. 人間が植物を折るなら、それは片輪に成る。それは、植物が栄養素を吸収する可能性を奪うので。萎れ、枯れ、死んでしまう。

102. 動物の体や人間の身体に関する関係も同じである。肉体は本来、不死の霊の道具にすぎない。霊によって肉体は世界に伝達され、霊の私という存在が世界と結合できる。

103. まことに生命の法則と掟を破る、法則を傷つけるような破壊は、ここでは、病気や全体の腐敗と成る。

104. 人間が霊の道具-肉体、霊や霊力が外部の事柄を顕示させる手段-を破壊するなら、彼は橋を壊してしまうのである。その橋によって、彼は霊界から地上の自然の中に、そして自然によって、再び他の霊域と結合しているのである。

105. その様な破壊により、霊体が地上のもの、即ち地上世界の為に失われるなら、それによって、誰ももはや霊体とは通じあう事が出来ず、霊体も、もはや進化することが出来ない。

106. この理由から、出来るだけ法則と掟に適った手段を取り、道具である肉体の健康と完全さが、維持されなければならない。


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002 OM42 その2


107. 身体の健康維持が人間の第一の義務である。同様にこの義務は、手術、臓器移植、輸血、注射、薬の供給、その他によって、創造の法則と掟の適度に準ずる範囲で遂行されなければならない。

108. 肉体に宿る生命の秩序は、非常にしっかりと強く厳かである為、霊は決してその秩序を除去する事はなく、除去する事も許されない。霊は肉体に従属していないけれども。

109. 肉体の維持のためにそれは飲食料、呼吸の為の健全な空気、皮膚の毛穴が活動できるように、外部の十分な清潔さが必要である。

110. 毛穴は、空中から繊細な物質を吸収し、肉体の不必要で無駄な生物を分泌させるために重要である。

111. 毛穴の十分な機能により、肉体は有能であり続け、多様な攻撃に対して防御する。

112. 肉体は外部の傷害に対して保護も必要とする。植物は保護層、動物は羽や毛によって、人間は衣類によってそれが現れている。

113. 健全な血を作り、力の発展のために、運動、活動、睡眠、休息が必要である。

114. それによって失われたものは再び供給され、植物、人間、動物は、そうして力を得、豊かに栄える。

115. 全ては、生命の自然に在る創造の秩序である。この秩序は、植物、動物、人間にも当てはまる。

116. 人間はただ全てを正確に観察すれば、事実、全ての生物に同じ様に、あらゆる秩序、法則、掟が存在しているのが判るのである。

117. 草や木も眠る。その事は夜、葉をたたんだり、花冠をつぼめたり閉じたりすることで、多くの植物に観察される。

118. まことに、正確に観察する者は、植物が呼吸しているのを見ることが出来るのである。

119. バラの香は、いわばバラが広げる繊細で甘い呼吸のようだ。

120. 木々は、不健康な空気を浄化するのが常である。そしてそれらは、多くの生命にとって障害と或る成分(二酸化炭素)を吸い、生命に役立つ空気(酸素)を再び発散させる。

121. 人間の霊も肉体に依存している。いわば優れた芸術家が、その道具に依存するように。

122. そのように健康又は病気の身体も、必然的に霊の活動と限定に大きな影響を与える。

123. 人間は、正確に自分の身体に注意すれば、植物的な性質により、自分自身の中に、不死の霊の法則とは何の関係も無い法則を見出す。

124. そうして突然。植物や動物の場合と同じく、霊体と並んで純粋な霊力が、肉体に内在している事が明らかになる。

125. そのことから、人間にもインパルスや本能に応じたものがあるが、植物や動物と異なり、彼はそれをコントロール出来る。

126. インパルスや本能は純粋な自然本能であり、それは肉体の維持と繁殖のみを目的としている。一方、霊の本能は、完成であり、癒しを望んでいる。

127. 生命維持の本能は、それ自体無実である。何故なら成育し、増殖し、養分を吸収する自然の傾向から、どんな犯罪の罪を自然に帰せられようか!

128. 癒しと完成に耐する霊の傾向は、徹底して自然のままの、自然の法則と掟をもって、宇宙的で美的一致の中に生きており、そのことのほうがずっと注目出来る。

129. 肉体が、その維持と適性のために必然的に欲するものを、霊は、肉体に、それら全てを調達させる義務があると見なす。

130. 霊の教えの聖典は、自ずと次のことを警告し教えている。生命の健康と幸福のために配慮されねばならず、肉体と健康にとって害となり得るものは、全て避けられねばならない。

131. まことに力強い優れた道具が無くて、何を芸術家は創作出来ようか。又、健康で有能な肉体無しで、人間の中の霊は何を創ることができようか!

132. そして次のことは真理である。全知の創造はこの理由から、自己障害や破滅に対して、多様な方法で肉体を保護している。

133. 既に意識の援助だけでも、霊自体と並んで、昔から人間とその肉体の最も高尚な監督であり、保護者であった。

134. まことに生命の本能は、肉体の維持のために、必要とするあらゆる必要性の満たしを、自ずと暴威的に要求する。

135. こうして霊は、その素晴らしく最高のものを整える道具の、自然の保護者と或る。

136. 必然性の自然法則は、非常に聖なる創造の秩序であり、生命であり、それは霊の法則と掟でもある。

137. 自然の中にある人間と、人間の中にある霊の間には、罪に至る堕落する矛盾は無い。

138. 何故ならまことに肉体が食物を必要とする時、どうして人間は、肉体に対してそれを拒むことが許されようか?

139. 又、肉体が長い目覚めの後で眠りを必要としている時、霊はどうして肉体から睡眠を奪うことが出来ようか、たとえ霊がまだ目覚めていたくとも!

140. だから人間は、その生命において、全く当然にも次のように学ぶのが常である。つまり、自然がその権利を要求するなら、どんな人間的力も、それについて何かを企画する事は出来ないと。

141. まことに人間の中で、規則的に純粋な自然生命の営みが行われる。意識がそれに注意せず、その事を知らずにいても。

142. 例えば、発散、消化、食物や飲料が、発汗、粘液、骨、血液、原形質、同様なものに変化すること、息を吸ったり、はいたりすること。吸った空気の肺における変化、不健康で変化した空気成分と栄養部分の排出、その他。

143. それに又、姿形、爪、髪の毛の成分、形成とその続行、老いた時の筋肉の硬直、次第に軟骨から骨に変化し、繊密な脈管が破れたり堅くなったりすることも加わる。それによって老いが始まる。

144. そうして又栄養素を摂取し、しかるべく所属に応じて消化する肉体の能力が衰え、徐々にその不能の増大が始まり、

145. そして肉体は、霊にとって完全に無益になってしまう。すると最後に、霊は肉体から離れる。そして死が訪れるのである。

146. 無数の地球人が過去に生き、今日も生存しているが、彼らは実際にこの多様な感情、法則、掟、秩序、又それらの独特な自然の原因と結果について、ほんの僅かの認識も持たず、今も持っていない。

147. 彼らはより良き人生形成をするために、心配したり努力したりせず、単純に日々を何と無く生きたのであり、今もそうして生きている。

148. しかしまことに、創造の法則と掟は静寂の中で更に働き、それは何も変化することは出来ない。何故なら創造は、決して自己矛盾に陥らないからだ。

149. だから人間は、次のことを認識するが良い。即ち彼の中に住む悪、罪に対する愛着、霊の法則に非論理的に矛盾する偽りの法則は、彼の地上的性質に基づいているのではなく、彼独自の思考と力のこしらえ物を示していることを。人間はそれを自ら操り、裁き、誤って展開させる。

150. 乳呑児が此の世に生まれただけで、既に彼は最初の一瞬に、植物以上のものである。

151. 彼は痛みと喜びを感じ、泣く。そして直に母親は、その最初の笑顔に魅了される。

152. 彼は辺りを見回す。彼の目は光の方向を最も好んで移動する。

153. 次第に彼は自分の母親を知る。そして彼は記憶力の在ることを示す。

154. まことに直に彼は不快なことを嫌がり、野外に出ていく。

155. 彼は自分の部屋から新鮮な屋外に出される。その瞬間が来ると、一定の状態から素早く学ぶ。

156. そして彼は自己の喜びによって、彼に判断力が欠けていないこと。即ち自ら思考していることを立証する。

157. そのことで彼は、植物に不足し欠けているもの、即ち進化する霊体を持っていることを立証する。

158. 人間の霊体は、その本質において地上的なものと根本的に異なる。それは自己と肉体の間にある媒介者なしに、肉体の粗野な部分とほんの僅かの結合も出来ない。

159. この媒介物はプシケである。それは理性の無い動物や植物も持っている。

160. そして植物や動物が人間と異なるように、プシケも霊と異なる。

161. 肉体はプシケと直接に結び付いている。肉体はプシケの衣であり、その中でプシケは生き、運動する。

162. 肉体は地上的であり、プシケの組織体も地上的(無常)である。

163. プシケの組織体は、感覚的に認知するように、緻密である。

164. プシケの組織体は、殆ど霊と肉体の中間物質である。

165. いわばプシケの組織体は、地上的なものに最も近い、より高度な力である。何故ならプシケは、肉体、そして霊の気質と結び付いているからだ。

166. プシケは、人間的植物的物体の最も緻密な部分を通じて、肉体と結合している。しかしそれでも無常である。

167. この部分も、霊の気質の担い手であり道具である為に、十分繊細で、その気貨は、物質的プシケに対応する霊的物質である。

168. プシケは全物体と同じく不死ではない。ただ霊の気質のみが、霊と永遠に存続するのである。

169. 誤って導かれた者、無知な者、倒錯した教師は、この点で間違った情報を提供されている。何故なら彼らは、プシケを不死であるとし、それを魂と呼び、死後も継続する人間の霊体であると、信じているからである。

170. しかし決してそうではない。何故なら古き名称である魂は、プシケを象徴しており、プシケは魂として肉体と同じく不死ではないが、肉体と霊の媒体者であるからである。

171. まことに次のことが多くの経験から、学識ある医者に知られている。或る特定の、霊的で目に見えない気が神経の回りに漂っていて、それは神経と同じく、肉体を越えて延びている。

172. 神経が遠くに達する限り、人間の感情も遠くに達する。又植物的なプシケも同様である。

173. なるほど人間の爪や髪の毛は伸び、植物におけるように、それらも生命を持っている。ただそれらは神経を持っていないから、最も異なる植物においても、その一部分が切断される時でも、プシケはそれを感じない。たとえそれが記録され、多分不利益をもたらしても。

174. 何故ならまことに生命の一部又は生命が、下等な発達をすればするほど、神経は僅かにしか貫いていないからである。結局それらには、プシケの部分が欠けているからである。

175. 従って、小さな昆虫や下等動物、そしてあらゆる種類の多くの植物は、感情的には無感情で、痛みを感じないということになる。いわば人間が様々に成長し、異なった身体部分に、異なった痛みの感情を示すのと同様である。

176. 従ってこの点においても、植物、動物、人間には大きな相違がある。それは既に、利学的な証明が保持され得る。

177. 快、不快、痛みと快楽、喜びと悲しみの感情は、人間又は植物や動物の中に、プシケが存在するという最も確かな印である。

178. 生命体が神経を多く有すれば有するほど、その生命体は高度な発達を遂げており、プシケもより高く、豊かな感情性に刻まれる。

179. 第一の本質として、いつもプシケはその満足、不満足、快、不快、を表現する。これらの感知から、プシケの残された全ての特質が発展する。

180. プシケ自体は苦痛を避ける。そして絶えず優美なものに憧れ、それに応じた願望を生む。

181. それによってプシケは、肉体とその道具の維持における実際の見張り人となる。

182. そうして創造による創造の知恵は、全てを次のように配置した。即ちプシケは、神経によって肉体の全ての部分に広がっている。即ち内部より、むしろずっと多く外部に向かって。何故なら、主に外部から傷害に脅かされるからである。従ってプシケの注意は、最も微小な外部からの刺激にも十分促される。

183. その時、プシケの組織体と直接に接触している思考も重要な役割を演ずる。従ってどんな思考も、瞬間的にプシケの組織体に導かれ、プシケは思考に応じて感化され、制御される。

184. 即ち、この第2の要因は膨大な意味を持ち、いずれにせよ、少なくとも人間の香場合、配慮されなければならない。人間は、論理的かつ非論理的な形で、独自の思考能力がある。

185. どんな思考も、プシケに達するや否や結果を示す。即ち思考は、それぞれ論理又は非論理に従って反応し、結果をもたらす。

186. 病的-非論理思考はプシケを混乱させ、健康で論理的思考は、プシケを最高調に膨れ上がらせる。

187. しばしば繰り返される外部からの、快、不快の印象から、プシケは体験を得る。そしてプシケは体験を互いに比較し、願望をそれに従って整え、評価を生み出す。

188. プシケは、純粋に論理的に基礎付けられている時、その評価もそれに同じである。従って非論理は非論理で答えられ、論理は論理で答えられる。

189. 人間がする正しい評価と体験、そしてその目的に適った利用は、賢さであり、その利用に応じてプシケに答えられる。

190. 即ちプシケは、それぞれの場合に応じて創り、その結果も、いつもそれに応じている。

191. そのことから次の結果となる。つまりプシケの本質の中には、快、不快の感情ではなく、記憶力や想像力、悟性、理性、願望等が基礎づけられている。

192. それら全てのことは人間だけでなく、異なった植物、理性を持たぬ動物にも見られる。それは種に応じ、それらがどのようにプシケと神経組織の中に刻まれているか、それらの霊力が如何なるかによる。

193. 動物や植物も、その種に応じてその痛みや喜びを知らせる。人間とそれは同じであるが、方法が異なるだけである。

194. 動物は存在した場所を覚えている。又動物が受け入れた人々や遊びの仲間、楽しみ又は忍耐しなければならなかった虐待を覚えている。

195. それは自分の主人を知り、記憶能力を自由に取り扱う。大部分は異なる高等植物のように、波動に応じた形でそれを行う。

196. 動物は或ることを知覚すると、単に一つの喜ばしい印象を再び記憶するのではなく、何ら外的な動機も持たずに、過去を記憶する。

197. 従って例えば犬は、主人がいる時に、自分の主人を記憶するのではなく、主人が居なくなると彼を求めるのである。

198. 象は40又は50年経っても、虐待を覚えている。従って彼に禍が生じる時は、そのように長い年月の後でも、記憶に応じた反応をする。

199. 即ち動物も想像力があり、或る姿を思い浮べ、それを他と区別する。しかしながらこれは、人間とは反対に、映像よりも感情と波動に応じている。

200. 動物や植物は、彼らに適した道具によって、人間のように話すことが出来るが、思考することは出来ない。それらの理解も、プシケの形で刻まれるが、他のプシケから波動を受信して、これを記録する。

201. この他のプシケの波動が精神的に記録されること、それが植物や動物の記憶である。それは人間におけるのと同様に、重要な機能を持つ脳の関心と並んでいる。

202. 即ち動物も植物も想像力を自由に処理する。それ無しには記憶は不可能であろう。

203. 又、より高等に進化した植物や特別な動物において、それらは睡眠中、夢を見る能力が在ることに気付く。その事は、それらに想像能力があるという又別な証拠を示している。何故なら、想像力無しで夢は生じ得ないからである。

204. 又植物や動物の或る一定の悟性や判断能力も、単に否認されてはならない。又それらが高等な進化を遂げた生物にのみ特有な自由な理性処理が出来なくても、そうである。

205. 最も異なった高度に進化した動物に、健全な理解を示す、どれだけ多くの著しい表現が見られるだろうか。例えば犬、象、ライオン、利口な狐、そして他の動物など。

206. これらのプシケ的な賜物は、非理性的な動物全てに同じ強さで与えられているのではない。それは人間における場合と同じである。


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003 OM42 その3

207. さて、プシケは、それ自体の間で完全さが異なるのであろうかと問われる。又、人はプシケの道具である肉体、又肉体によってプシケは効力を表
わすのであるが。それが不備であったり、又は全く一部欠陥があったり、異なった動植物の属にあるように、互いに離れて順化しているような時、プシ
ケはその全本質を、全力を絞って表現出来ないと考えねばならないのだろうか?

208. 殆ど人は、後者の意見を受け入れる傾向があるだろう。何故ならプシケの力は、魚、犬、蛇、象、オジギソウ属、人間に似た猿におけるのとは、
異なって示されるからである。

209. 人間においても、又、転んだり打ったりして肉体の大切な部分、特に全ての神経が最も強力に合流している頭の部分などに傷害のある人の場合に
は、大きな相違がある。しばしば突然彼らの能力に変化が現われる。

210. これに関しては次のような例がある。即ち人間は地上の道具-肉体のゆっくりとした腐敗により、突然記憶力を失う。これは多くの場合高齢期に
起る現象であるが、

211. それに対し他の人間は、外傷の事故により突然理解を増し、感覚に富み、純、粗物質的事柄の受信に敏感になることも立証されている。

212. 人は、アルコール、薬剤、端座による手段が、その中に含まれている無価値な毒物により、素早く神経を刺激することを知っている。そうしてプ
シケの活動は増大するか感化される。

213. 或る場合には記憶力を高、。他の場合には想像力を高める。又他の場合には、全ての思考とコントロールを破壊する。

214. その成分は種類に応じ全ての生物に、人間、動物、植物であろうと、同様の反応を生じさせる。

215. 正にそれは、次のことを人間に立証しないであろうか。即ちプシケは、全て同じ素質を持っているはずであること、ただそれらは、一部身体構造
や神経叢の相違により、又身体の内部的形熊の相違により、その素質を総合させ、同じ力の方法をとって表現することを、妨げられていると。

216. しかし在るがままにさせるが良い。創造の知恵在る創造の理念が この不平等と多様性を自然の中にしっかりと根を下ろしたのだ。

217. これは、全世界の宇宙プシケの促進と活動に役立つ。

218. まことにプシケが行動を刺轍するものは、いつも痛みであるか、快感である:あらゆる願望、飢え、幸福、快適さ、苦しみ、不安、驚きの最初の
原動力となるものが、生命体を支配する。

219. ただその中で理性のみが相違を作る。だから人間は、例えば、愛、喜びと言う様な更に高級な動機を持つ。

220. ただ動物や植物は、行動に対する、より高き動機を持たない。それらには、理性は内蔵していない。

221. 動物は食物を探す為に目覚める。そして自分に害を及ぼすものを全て避ける。動物は楽しみによってあちこちを歩き回る。そして自分に対して、
又自分のために全てを行う。

222. 感情生活は、動植物の行動の動機と成っており、それらは自分自身以外の目標を知らない。

223. 動植物は、何を欲し、何を嫌うか、全てはそれらの場合、利己心にのみ基づく。

224. 子に対する母性愛ですら、目標や目的が達成されると直ぐに消えてしまう。空腹のように自己中心的であり、自然本能に過ぎない。それは本性で
もある。

225. 多くの動物達の互いの、又は自分の主人に対する感動的な忠誠さはただ利己心の結果にすぎない。何故ならこれらの動物的忠誠さは、理性的な尊
重と畏敬、又は義務感の実ではなく、単なる繰返しによる、自然本能に応じた印象であるからだ。

226. 又人間のプシケも自然本能と結び付いている。どんな人間も、あらゆる理性が在るにも拘らず、その支配から完全に解放されることは出来ない。

227. 又それは屡々より優れた意志に対して、人間を節度の無い、快楽の虜になるよう誘惑する。そしてより優れた本能、勤勉さ、善を、利己心をもっ
て汚してしまう。

228. 誠にこれは、あらゆる人間的堕落の最初で、主要なる源泉である。だから人間はそれを克服するよう、第一に理性によって、この自然の本能が、
出来るかぎり抑制されなければならない。

229. 繰り返される自然の印象から習慣が形成される。習慣は、直ぐに第二の非自然的天性になる。

230. 習慣は並はずれた力を持ち、それは誤った思考によって操縦される。そしてそれは、素早くプシケに克服し難き影響を及ぼす。

231. このことはプシケの本質から容易に説明出来る。何故ならプシケは、ただ感情と思考によって行動し、それらの感情思考は、再び新しい感情思考
を生み出すからである。

232. 即ちプシケは、次の事にようて行動を取る。それは不快感情によって離れ、快感によって運ばれる。又それぞれ、感情、思考、状態、印象等によ
って、快、不快を生む。

233. 快適な状態は、プシケにとって痛みと結び付いた未知な状態より、もっと重みを持つ。

234. だから人間、植物、動物のプシケは、全てを経験する迄、あらゆる未知のものに対して、不安と恐れをもって抵抗する。

235. この理由から、プシケは、慣れた状態や慣れた刺激の方を、他のものや新しいものより好む。

236. しかしそこに大きな危険が生じる。即ち誤った影響下では、善は次第に、それと気付かぬ内に悪に変化される事である。それによって誤った思考
、誤った感情、その他の結果として生まれた誤った習慣から、欠陥制御や病気が生じる。

237. 習慣は、その中でプシケが生きる要素である。水の中の魚、空中の鳥という風に。

238. いわばプシケは、良く通じた状況に従い、それらの限界、法則、掟に従って運動する。

239. 限界、法則、掟とプシケは結合している。いわば身体の必要な部分や、その特異生と結合するように。

240. プシケに誤った感情や誤った思考を押しつけると、それは歪んでしまう。同様に必要なものをそれから奪うと。プシケは傷つく。

241. 習慣が、動物のプシケに及ぼす力がどんなに巨大なものであるかは、証拠も例えもいらない。

242. 同様に、人間のプシケに対する習慣にも力が在る。ここには人間の堕落である第二の源がある。

243. ただ人間はそこで、習慣によって自分のプシケに無常な事柄を必要とさせる。そして彼はプシケを、最も探き悲しみに落とす。

244. 何故なら無常なものは無常であり、いつか無くなってしまうからである。無常なものの習慣が無くなると、それ故にプシケは病気になる。

245. しかし無常なものは多様である。お金、財産、性的な虜、偽りの愛のように、非常に強く体現された束縛や、偽りの思考感情、その他である。

246. どれだけ多くの人々が、誤った感情、誤った思考、混乱した状況や印象等々から生じる誤った苦痛から、自殺者や殺人者に成ったことだろう。何
故なら彼らは、今迄彼らの全プシケが依存していたものを、多分無くしたと思った後で、誤った状態が、彼等にとって耐え難きものとなるからである。

247. まことに誤った習慣、情欲、希望、願望以外に、一体全ての情熱は何であろう。プシケはそれらが満足することに慣れている。

248. 事実情熱は、人間の最も有害な習慣である。それによってプシケは主に矛盾させられる。何故なら情熱は、熱意を持って探す苦しみであり、それ
は苦悩を生む。即ち、嫉みをも。

249. プシケは、プシケを満足させる手段を奪われると、その状態に耐えられない。

250. しかし屡々情熱的な人間は、その習慣的になった情欲をもはや抑える事が出来ないと、無謀にもその自己の生命又は美徳を犠牲にする。

251. これがプシケの本質であり、それは高尚で素晴らしい力である。

252. プシケは、植物的-霊的生命と結合し、植物的-霊的肉体の維持と、その秩序を監視する。

253. プシケは、理性の無い被造物も理性を与えられた被造物も導く。そして被造物の行動を指令する。窮地に陥ると、それを滅亡から守り、別な有機
又は見掛けは無機世界の出現と戦う。

254. プシケは決して明るく鮮明な表象能力は無く、映像、感情、欲望、願望、その他を表わす能力があるのみである。

255. どんな形であれ、プシケは遠くの目的や目標を認識する能力は無い。それは痛み、快感のみによって動く。より高尚な認識の代わりに、それはた
だ暗い衝動のみを持つ。

256. 動物や植物が、何ら明るくはっきりとした表象をしないことは、全く殆ど疑いの余地が無い。

257. そのような事は、まだ言葉が話せない限り幼児にも殆ど見られない。

258. 幼児も、第一に映像、感情、欲望だけを持ち、より高い理性の願望が成長するまで、その中に生きる。

259. そのように幼児、成長する人間にも、まず地上的性質、いわゆる植物的なものが発達する。

260. この様にしてそれが為されると、幼児の中にプシケの活動が高まる。そして人間の本性が現われ出てくる。

261. そして、あらゆる粗物質的地上的なものの最高者、即ち意識が発達する。それは人間の中に生きている、自己を意識した、私である。それが全て
を生かす素晴らしい創造霊の一部と共に、プシケの全ての能力を照らす。そして全ての摂理を認識し、万有をかいま見、霊体の起源が創造に在ることを
知る。

262. 肉体が人間のプシケの担い手であり、粗野な道具であるように、プシケは、霊自体の広く枝分かれした直接の覆いである。その中枢は脳に在り、
そこから全体に目に見えない細条細工の糸のような、神経組織が形成されている。

263. 人間のプシケが神経系に導かれ、全身に織り込まれているように、霊体も、脳からプシケの本質とその資質に浸透する。

264. 肉体が、完全か不完全な道具かによって、肉体はプシケに、肯定、又は否定的に持続的影響を与える。

265. 肉体が病気や事故等によって欠陥があると、プシケも病気になる。

266. 思考も肉体に属する。何故なら、やはり肉体に属する粗物質的脳領域から発生するからである。

267. プシケはその能力により、肉体の保護者と成る。即ちその能力により、プシケは粗物質的又は純物質的内外の障害を知覚する。

268. この理由から、それが大きいか又は持続的である時、粗物質又は純物質的な苦痛は、全プシケの本質を損なう。

269. 肉体の植物的性質から、いわゆる気質が生じる。

270. 神経の衰弱と敏感性の強弱、神経の敏感性の強弱、内臓の虚弱性の強弱、血管を走る血液の濃い薄い、その他多くは、必然的にプシケの健康に決
定的な影響を及ぼす。

271. 肉体や思考の欠陥が、プシケに痛みをもたらせばもたらすほど、又は健全な思考と健全な肉体が、プシケの快適さと快活を守れば守るほど、プシ
ケは悪又は善に傾く。

272. 従って健康な日々、ごう慢で怒りっぽく、官能的快楽に耽っていた人も、病気になると愛情に満ち、温和で謹みを持ち、正直になる。

273. その反対に健康な日々に好意的で慈悲心に富み、親しみやすかった人々は、病気になると非常に喧嘩っぽくなり、疑いを抱き、文句ばかり言うよ
うになる。

274. いわゆる機嫌が良いとか悪いとか言うことの大部分は、肉体の健康状態、病気の状態、又は情緒的気分の結果である。

275. しばしば精神病医は役立たずである。何故なら医者のみが道具である植物的な肉体に、再び秩序を整える手助けが出来るからである。

276. だから、これらの事柄は全て、偶像、宗教、聖人、宗派に基づくのではない。だから大酒呑みや、畜生のような放蕩者における弱腰で物悲しげな
警告の様に、全ての宗教的表象も同様に実を結ばないのである。

277. 何故ならプシケは、肉体とそれに結び付いた習慣、あらゆる活動における神経構造の麻痺によって病気になったからである。

278. 即ち、先ず肉体、思考、感情等々が救われなければならない。そうして初めて、苦しみを受けているプシケはひとりでに健康になる。

279. 従ってそのことは、如何に肉体の健康管理の義務が重要であるかを立証している。何故なら、より高き完成-プシケと意識の健康は、人間の状態
の適、不適であるからである。

280. この義務は、それだけ意義のあることである。何故なら或る病気や肉体的欠陥は、子供達に遺伝し、子供も又両親と同じような素質や傾向、気質
の大なり小なりを受け継く可能性があるからである。

281. しかし肉体の健康よりもっとずっと重要なのは、プシケの健康でなくてはならない。何故ならプシケは、又霊の道具であり、体であるからである


282. プシケの病は、霊がその位置に定められていると感じる高みから、霊を引きずり下ろす。

283. 霊は自分の翼が萎えた時、どうして創造的なもの、聖人へと高く舞い上がれようか!

284. まことにプシケの病は、いずれも観念的情熱的な性癖であり、いずれも習慣的又は単純に無常なものに対する圧倒的な偏愛である。

285. プシケの性質に従って、楽しみが消えてしまったか、又は意識や知性がそれを拒むかの理由で、プシケが無常の楽しみを無しで済まさねばならな
い時、人間の内的、プシケ的痛みが生じる。そして肉と知性の法則の間で、内的な葛藤が生じてくる。

286. ここで人は、創造的なものが塵に服従しなければならなかった時、霊が真に人間自身によって停滞させられる時、畏怖して罪深さの源泉を認める
。   

287. まことに全ての動物の中で、最も賢い動物も鈍感な感覚の中を歩み、ただ暗い衝動に導かれ、快楽と苦痛を嫌う要求に支配され、混乱した体験映
像に取り囲まれる。

288. これらの動物の最良の功績は、無言で有益な習慣である。

289. 動物の忠誠や愛は、本来徳という高尚な命名には値しない。それらは動物達にとって未知のものである。

290. それらはただ、本能の衝動と習慣の力にのみ支配されている。彼等には、徳性という誤った刺激的な外観が付与されている。

291. それは義務と権利の納得ではなく、そもそも高貴なもの、善なるものに対する尊敬ではない。

292. しばしば動物について感嘆されるあらゆる理解力、悪巧み、芸は、創造により授けられた暗い衝動、あるいは或る一定の状態のもとで、彼等の中
に快さや痛みを呼び覚まず事柄に関する混乱した経験の記憶、それ以外の何物でもない。

293. どのようにして動物達は食料を探すのか。巣や巣穴をどの様にして作るのか。敵の追跡から如何にして身を護るか。又人間にとって役に立ち、楽
しみと或る全ての事柄を如何にして修得するか、いずれの種類においても全てそうである。

294. 餌を求め辺りを飛び回り、秋になると未知の世界に飛び立ち、春になると遥か遠く離れた土地から戻り、再び自分の故郷を見出す鳥の最大の器用
さは、まことに生まれたばかりの乳呑児が母の母乳を探しか弱き生命の維持の為にミルクを飲む時と同じく、驚くに値しない。

295. 蜂の蜜蝋の建設作業も意義深い。又蜂は冬に備えて、如何に一生懸命忙しく働いて採集するであろうか;それらの業は、誠に人間のように独自の
熟慮による作品ではなく、単に衝動の作品なのである。            
     
296. まことに彼等は、この衝動が導く以上には凌駕しない。彼等は、自分達の仕事を決して完全なものに創り出す事は出来ない。彼等の活気さは、決
して新しい認識によって増すことは無い。

297. 蟻や蜂は、世の初めから何百万年前に業を作り、餌を集めたように、更に今日に至まで巣を作り、採集している。

298. それは人間の活動とその業とは全く異なるものである。

299. 何千年来、人類は状態、家屋、技術的設備、社会施設、哲学的究明の完成において、絶え間無く進歩している。

300. かつて森や洞窟、坑上家屋に住み、後にもろい石や木造の小屋に住んでいた人々は、最後には人生の楽しみに満ち溢れた、きらびやかな宮殿を建
設した。

301. 結局彼等は空間を制覇し、無人や有人ロケットを万に打ち上げ、既にそこに宇宙ステーションを建設し、まもなく未知の世界を訪問し、入植しよ
うとしている。

302. かつて裸で、又半分体を包み、野獣に恐怖と驚きを抱きながら、あちこち放浪していた彼等は、今では天候の厳しさに対する優れた衣装でしっか
りと護られ、人工武器で保護され、彼等自身が野獣の恐れと成り、地の支配者と成った。

303. どんな地域社会も、技術によって最早彼らには遠くない。又どんな山々も最早彼等にとって高すぎることは無い。

304. 彼等は魚の性質を持たなくても、大洋、海、河の上に浮いてしまう;又翼の装備が無くても最も高い天空に昇り、それを越えて、鷲さえ押し進ん
だことの出来なかった所に至る。

305. 彼等は暗い地の内奥を据り下げる。どんな虫さえも道に迷うことが無いように深くその下で自然の宝を運び出す。そして彼等の多様な必要性を満
たし、創造の素晴らしさをより正確に知るに至る。

306. まことにこれら全ては、人間の思考、その意識、霊力-光の源泉から湧き出る、生命の閃光の実である。

307. 兪然界に生きている、全てに及ぶ霊の壮大さを人間に与えているものは、霊のみである。

308. 人間にただ一回の生命体験を集積させ、それを相互に並べ、比較させる能力だけでなく、何千年前もの前世の総合的経験を保存して、使用させる
能力を与えているのは、理性の在る霊だけである。

309. 霊とは、創造の力により、何千もの異なる観念を、唯一のすべてを包括する概念に解明するものである。

310. 霊とは、無数の思考の混乱から、いわば統一、秩序、明晰に満ちた新しい内的世界を築くものである。又目に見え、把握できる全世界以上のこと
を知り、識別し、何千年間の物質体験を語ることが出来る。

311. 何故なら霊は、あらゆる地上的なものや物質的なものの上を漂い、霊は、より高き世界に属しているからだ。

312. 人間の霊体は、創造と親密なる親和性があり、霊体はそれ自体に、創造の源である印を持っている。

313. 霊は働き、進化し、その力は創造の無限の高きに向かう。


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004 OM42 その4

314. それら全てを動物や植物は何も知らない。又全ての高尚なるもの、超感覚的なものに、非理性的な存在は、何の予感も無い。

315. 彼等は生存の目的を知らない。誤って導かれ、信心深い全ての人々の場合がそうであるように。彼等の理性は、愚かさと信心に捕われている。

316. 彼等は全く感覚的熱望の満たしから生じる以上の、完全性と至福に達する事も出来ず、その能力が無い。

317. 彼等は皆、過去については何の予感も無い。又永遠、無限時間、無限の存在についても、そうである。

318. 植物は、最も感情に欠ける存在として、しっかりとその根を土壌におろしている。そこから生命を得、暫しの間、花を咲かせる。

319. 暗い感情、本能、習慣によって働き、這い、飛び、土塵の中を歩む動物は、その幸福の全体を土塵に感謝する。

320. 動物は簡単に食物を食べ、実を振り落としてくれる木を見上げない。

321. そしてそれは、不注意に食べつくし、愛らしき花を見ない。又一つ一つの植物の異なる味に注意することも無い。

322. しかし人間の霊は、生命のあらゆる関連について明晰に注意する。そして意識によって、原因と結果を探求する。

323. 霊は大いなる力を持って不可抗力に打ち勝ち、しばしばその力を強制する;霊は嵐に抵抗して大波を抑制する。そして雲間から走る稲妻の炎を括
る。

324. 動物は口をきかず、歩き、他の全てのことに冷淡で、自分の必要性を満足させようとする。

325. しかし人間の霊は、創造の華麗さと力により、その働きに歓喜し、土、岩石、生命、植物の持つ有益な力を探索する。

326. 霊は、動物の生活方法や特質を調査し、殆ど無限である世界空間の中に押し進む。そして霊の頭上で星として輝く世界秩序を数え、計算する。霊
は星の巨大な軌道を設ける。

327. 動物は、自分の痛みや楽しみと、単一の音又は動きによって認識させる。又自分と同じ動物を誘惑し、警告し、呼び、脅かすことも出来る。

328. 全てのことは、ただ単純な音声によって起る。その音声とは、暗い本能によって学習し、起こされるものである。

329. まことに人間も、単なる音声、溜息、叫び、咽び泣き、笑い、雷のような脅し声によって、天分や知覚を表現しなければならない。

330. 人である彼は、進化する霊体を持っている。だから彼はもっとずっと多くのことが出来る。

331. 彼は言語を持つ。それによって彼は、自分の内面と目に見えない全世界を音声、響き、身振りによって提示することが出来る。そのことによって
彼は、自己の最も内奥の存在と生命を、同じように創られた生命の最も内奥の存在に植え付ける。

332. しかしまことに、これら霊の全ての利点はまだ最高のものではない。

333. 人間の霊の中における創造的なものは、その創造への憧れ、創造そのものとの結合に対する憧れである。         

334. 霊の中には、どんな点でも、全く全ての地上的なものと拘りの無い、完全と完了を求める努力が在る。

335. 霊は、真実であるもの以外に何の平安的価値も見出さない。又公正なもの以外、何の喜びも見出さない。

336. 霊は、美、気高さ、美徳に対し、際立った畏敬で一杯である。又虚偽、不道徳、あらゆる種類の不完全さに対する自然な嫌悪に満ちている。

337. なるほど動物も、或る一定の理解度を持つ。しかし人間だけがより高き理性を持っている。理性は、聖なる義の行いの律法者である。

338. 又動物も賢明さを持っている。しかし知恵を行う能力は無い。それは人間の意識、霊、創造だけの財産である。

339. 即ちこれらが人間の地上的事実であり、本性である。それらにより、彼は超自然的なもの、永遠的なものと有限なもの、無常なものと生きている
ものの間に立つ。

340. 人間の足は大地に立つ--その頭は真っ直天に向いている。彼は植物であり人間である。彼は又創造的なものである。

341. 彼の体は霊の道具にすぎない。霊のみが真実この道具を支配し、その道具と共に完成に達せられる。

342. 肉体の性質は、霊としてのそれを維持するために他の立法を持つ。そしてプシケは、その感情や残りの特質の中に別な立法を持つ。

343. 霊は更に最高の立法を持つ。それは最高のものとして、他の全てのものはそれに適合しなければならず、それに順じている。

344. 光の明晰-即ち創造の力は霊の中に侵入し、光明で満たし、自ら肉体とプシケの全ての特質を高める。

345. それ故、次のようなことが生ずる。即ち、人間のプシケは、他の生命体の熟練、熟達において全てを凌駕している、そして肉体は、自己の内的感
情と表象の。外的鏡となり得る。

346. それ故、更に次のことが生じる。人間のプシケは、その感情と能力において、植物や動物のそれが決して或ることが出来ないほど教化される。

347. 例えば動物は、秩序と清潔さのために暗い衝動を持つことが出来る。しかし人間のプシケのみが、外部の美に対する感覚を持ち、人間のみが魅力
的な姿を見て恍惚となったり、魔法のような音楽の響きの中に生きる。

348. 動物は卓越した力や強さによって、他を恐れさせる本能を持つ。しかし人間の感覚と人間の霊は、この本能を多様な思考作用から栄誉と称讃を求
める努力のために洗練する。

349. 動物は全く貪欲に渇望し、獲物を見張る;人間の感覚と霊は、この粗暴な所有の喜びを、財産を増やそうという意向に改良する。何故なら自分の
援助手段の多様性と、その活動範囲の拡大により、隣人の幸福のための崇高な義務を果す可能性も、もっと大きくなるからである。

350. そしてここに、どの人が、より人間であり動物的であるか、誰が、より人間存在的な傾向にあり、誰が、より動物的な性質があるかの判断の基準
がある。

351. 人間は霊の力と荘厳さにより、どんな動物やどんな植物よりずっと優れ、完全である。

352. だから人間の狡知やそのすべての賢さは、残りの全ての生命体の、あらゆる狡知と賢さを凌駕する。

353. 又人間は、その非常に拡張した記憶、最も豊かな経験、研ぎ澄まされた悟性、発達した理性により、まことに他のどんな生命体をも凌駕する。

354. 彼の機敏さ、強さ、最も鋭い感覚器、彼の思考処置は、最も豊かに実を結んだ動植物の自然の武器を凌駕する。

355. まことに人間が、此の世でもはや改良された植物や最も教化された動物以下であれば創造より発生し、永遠と完成のために選ばれた人間は、如何
に軽蔑に値するであろう。

356. 人間は猿から進化したなどと、どうして無鉄砲で軽蔑的に受け入れることが出来ようか。

357. まことに人間が猿から進化するのであれば、名前があってもただの動物にすぎないだろう。しかしながら最も狡猾で、最も暴力的で権力があり、
最も経験を積んだもの、最も贅沢する者である。

358. そしてもし人間が猿から生まれるのであれば、彼は自らの内にある、高き天職を忘れてしまうだろう。何故ならどんな創造が身を下して、自ら畜
生の様な非理性によって、進化したいと卑下するであろう。

359. まことに人間が猿から進化するのであれば、人間が、動物の間で王と呼ぶのが常である尊厳ある獅子は、如何に彼には不自然で不快に見えるであ
ろう。

360. 人間が改良された植物や動物の進化したものに過ぎず、虫の中でも、単なる勝手な動きによってのみ、下等な雑草と区別される、取るに足りない
虫以下であるなら、どうして人間は獅子をそう呼ぶことが出来よう。

361. 獅子がその内に住む巨大な力を忘れるなら、どうなろう;そして森を驚かし、砂漠を隈無く支配する、その雷のような声を忘れるなら?

362. まことに人間は、突然動物以下のものになるであろう。まことに虫以下のものに。

363. まことに人間が、あらゆる高き天分を持っていながら、単に猿から進化した動物の子孫であることに得心するなら、創造のために創られた人間-
-即ち創造の存在と働きのために、驚くべき武装させられた人間は、不自然で嫌らしいものであろう。

364. 人間に禍あれ。何故なら彼等は、死すべき人間として一体どの位、野獣や家畜とは異なっていることだろう。彼等の振る舞いによると、まことに
人間として識別するのは、ただ困難であるからだ。

365. 知恵者はこのことを考えて身震いする。彼は如何に人間がしばしば、自己の尊厳以下に沈んでおり、自己の創造的源と、その高き摂理に全く調和
していないかを真に認識する。

366. 知恵者は如何に人間がただ快感のためにのみ生き、ただ食物と財を集めて楽しみ、目立つために配慮し、地上で働いているだけであるかを見る。

367. そして知恵者は、如何に人間が貪欲にお金を護り、暴利行為を営み、貴金属を集め、人から彼は金持ちであると言われているのを見る。

368. 又知恵者は見る。如何に人間が低次元な好色、変化に富む淫蕩、一つの苦労から他の苦労への移り変り、衣類、器具、暴飲の贅沢以外に、何ら大
きな幸福を知らないか、又如何に彼は、日々平安と同市民の幸福を、一時的な名声のために犠牲にしているかを。又如何に自分より優れた者に対して。
いつも嫉みを持ち、誤った虚偽の本能を認めない人々に対して憎しみに溢れているかを。

369. まことに彼等が改良された家畜以下であり、より高尚なるもの、創造的なものに対して何の理解もせずに生きるなら、最も美しきものの中で最高
の美を持つ者、最も権力のある者の中で最高の権力者、最も賢い者の中で最高の賢者は、何であろう!

370. まことに動物の方がもっと多くのために生きている。即ち今日という日や、将来や、窮極的に避けられない臨終の時すらを越える欲望や、性癖や
、願望を満たすために、生きている。

371. まことに人間は、創造の言葉を果すべきであると洞察し、それでも行動しないのであれば、改良された動物以上である人間は、何であろうか!

372. 又、学べる場所に急ぎ、真理を聞き知っても、それを成就させない人も皆、改良された動物以下である;つまり彼が生命であるか創造に祈るが、
その教えが明らかにする様に、創造の意志を実行しない時である。

373. 又真理の教えは、外面的な適用を習慣的に観察するだけで、その意義の中に生きない者も皆、改良されたペット動物以下である。

374. まことに霊は欲するのだが、肉体は弱い。だから人間は試みにあわない様に、自分の力で全ての害悪を克服し、創造の聖なる意志に従って行動す
るよう更に目覚め、学習し、祈り、働くべきである。

375. 創造の知恵ある全能が蘇生させたものは、全てその中で、大いなる永遠の時間の法則により運動する。

376. まことに何ものも、この法則を破ることは出来ない。何故ならそれ自体は、真に全能の力を持つ全能であるからである。

377. この永遠の秩序により、天体は運行し、石は風化する。同じようにしてその法則により、金属は生じ、植物は成長し、花は咲き、枯れ、鳥は空を
飛び、虫は水の中に泳ぐ。

378. この秩序が、人間とその異なる性質をも支配しているのである。

379. 肉体は永久の配置より生じ、食物を採り、滅びゆく。

380. 又永久の配置により、動植物と同じく人間の中にあるプシケは、感じ、欲し、行動する。

381. これらの配置は、余りにも素晴らしく調和し、決して互いに反駁する事無く全体の維持と永続の為に作用している。

382. それらは決して不純であったり、罪等は無い。何故なら、どうして創造から不純で不聖なるものが生じ得ようか!

383. まことに動物が、その行動と行いに責任があるとは、どんな生命体も言う事が出来ない。

384. これはまことに人間だけに言えることである。何故なら人間は動物や植物と異なり、何が良い事で何が悪い事か、それに対する理性と判断能力を
与えられているからである。

385. 人間は霊力によって生かされるだけでなく、進化する霊体によって生かされている。

386. 霊体の担い手として、彼はその法則を受け入れ、この霊の法則は、動物や植物の霊力におけるより、高い種類のものである。

387. この法則は、創造より生まれるのであり、創造そのものは霊である。

388. 創造が人間を蘇生させるように、人間にある創造の一部である霊体は、純粋で罪が無く、完全に中立で調和されている。

389. 創造の一部は肉体から離れても、純粋で聖である以外、何の意志も持つことは出来ないだろう。

390. それに対抗する感覚的欲望によって、創造の一部は屈することが全く無く、自然の無垢を失わない。

391. 創造の一部は、人間のあらゆる害悪により腐食されない。何故なら、少しもその力を失うこと無く、停滞に陥らないように、簡単にそうしたもの
を遮断するからである。

392. 霊は意志を持つ。その意志とは、創造が意志する、それである。

393. 霊の教えは昔から与えられている様に、創意の意志を明らかにする。

394. まことに霊において、この教えを持つ者は、創造の中に留まり、霊が、創造のものであることを真に知る者は、創造の御名によって与えられてい
る言葉に聞き従う。

395. 創造のあらゆる配置が互いに反駁しないように、自然の中で素晴らしく調和し、決して罪を負わず、それ自体いつも善であり聖である時、それで
はどこから、罪が此の世の人々の間にやってきたのであろう。そして肉と霊の法則と掟の間にある腐敗せる戦いは、どこからやってきたのだろう?

396. そもそもかつて、地上には3種族の人間が生存していた。まだ誤って導かれ、偽造する宗教書について何も知らない最も古き伝説が、それについ
て語っている。

397. その頃はまだ、聖書、モーゼ、仏陀、仏教、イスラム教、モハメッド、ユダヤ教、アフマッティ宗派、カリ宗派、ヒンズー教、孔子の教え、シャ
ーマニズムも何も無かった。それらは今日の地球人類の約3000にも及ぶ宗教宗派と成っている。

398. 例えばアメリカインディアン族などのような、民の持つ最も古い伝説や口碑のみが、その様な時代を暗示している。そして彼等のみが3種の人類
について語っている。

399. この時代の人間は、まだ最も純粋で無垢であり。彼の感覚的本能やプシケの感受性は、霊の霊的法則と掟に何ら矛盾していなかった。

400. 当時の人間は、創造や自然ともっと一体化していた。

401. 地球人よ、貴方が自分の衰退と、この内的な不和の発生を自分自身で説明しようとするなら、一方で地球に害悪をもたらした宇宙人の歴史を見、
他方では、それぞれ死すべき者の生誕の時からの歴史、即ち貴方自身の人生の歴史を振り返ってみるが良い。

402. 乳児は無邪気である。幼児はまだ罪が無い。何故なら彼の内的衝動、規則、掟は、まだ何ら矛盾していないからである。

403. つまり幼児は、その地上的な性質に従って、地上的な事柄をしばしばはげしく行うが、まだ彼の中には物質意識の力が目覚めていない。だからま
だ彼は、内的分裂も無く眠っているのである。

404. 又感覚的愛着も、習慣によって意志を上回るほど腐敗的優勢にまだなっておらず、より優れた傾向も、邪悪なものにまだ抑圧されていない。

405. 子供は若い本性の故にまだ正直で偽りが無く、愛らしく善である。

406. だから次のように言うのである。『だから貴方がた大人は、子供のようにならなければ、霊の国には入っていくことが出来ない。』と。

407. しかし、子供も目覚め、年をとり、あらゆる種類の刺激、感覚に作用し始める。

408. 子供は、大人の偽った例に誤って導かれ、偽った感情による麻痺した慈善を引き起こす、誤った習慣を受け入れる。

409. こうした邪悪で偽った悪習慣は、最初の内は無邪気に見える。子供の教育に責任を持つ人々は、それを見逃し、異常にもそれを更に増長させる。

410. この邪悪な習慣は年と共に凝り固まり、そして習慣は同時に、法則に反したもう一つのプシケの性質と成る。

411. プシケと肉体は、そうして誤った方向を受け入れる。何故なら習慣の充足は、あらゆる愛着の内の第一の愛着と或るからである。  

412. 霊や肉体の道具は、それによって欠点を持つ。何故なら不健康なプシケの芽が伸び、霊の活動は麻痺さられるからである。

413. 習慣的な欲望を、満足させない事から生じる痛みは、長い間我慢出来る範囲を越える激しさになる。

414. プシケ、霊、意識は、圧倒的な習慣の欲望--病気--に対して戦いを起す。

415. 結局霊は屈服せざるを得ない。何故なら感覚的なものが勝利し、霊の霊的意志は停滞するからだ。そしてそれが罪なのである。
              
415. 昔から知恵者の間で、特に今日まで精神科医によって、次のことは知られている。即ち習慣は、プシケにも肉体自身にも大きな変化を生じさせ。 それはそのまま留まる。

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005 OM42 その5


417. 人間が善であれ悪であれ、しばしば用いる力は、練習によって僅かな努力しか為されないものより強くなる。

418. だから例えば、左手より右手を頻繁に用いる人々の手は、折々大きくなり、必ずや益々強くなって掴むようになる。

419. そのように他より頻繁に適用される、人体のあらゆる内的活動もそうである。

420. そのように、他より頻繁に刺激され、適用されるプシケのあらゆる傾向と力もそうである。

421. そのようなプシケと総合的肉体内部の特色は、両親から子供に受け継がれるのが常である。同時に植物の或る一定の特色も、それから生まれてい
く全ての植物に継続される。                
     
422. 軟弱な両親は、強健な子供を持つのはまれである。彼等は最高の生命力を淫蕩に費やすか、そうして血を毒し、その欠陥を憐れむべき子孫に遺伝
させ、子供達の霊を不完全な道具に遺贈する。

423. この理由から多くの家族に、或る一定の病気、弱さ、傾向、腐敗的素質が遺伝される。つまりそれが長く続けば続くほど、多くの素質が伝わる。

424. だから或る一定の欠陥を持った傾向が、世代から世代へと遺伝される。

425. こうした遺伝に基づき、強化された感性の支配が相続責任であり、それは宗教宗派により原罪と呼ばれる。

426. 最初の地球人類が、かつて宇宙人の感覚的陶酔に誘惑された時、彼等は、自分の中にある創造的なものを直ぐに忘れてしまった。

427. 次第に彼等は、耐えず大きな自己矛盾に沈んでいった。そして習慣的に受け入れた弱さである誤った倒が、子孫に影響を与えた。 

428. 罪に傾く愛着、欠陥のある素質、個々の動物的本能の優勢が遺伝された。

429. 最初の地球人の出来事から、罪がこの世に現われた。そして今日も尚、不道徳な両親により、或る一定の悪徳に対する、愛着に継ぐ愛着が継承さ
れている。何故なら罪の堕落以来、決して除去されなかったからである。

430. だからどんな両親も、罪の習慣や愛着により、自分の肉体とプシケを錯乱させ、こうした破壊的状態、肉欲、発作的怒り、暴飲暴食、あらゆる害
悪を子供達の不幸な遺産にしないよう、あらゆる事柄に対して、自分自身に注意する事が如何に大切であろう。

431. 又両親にとって、生まれる子供の身体の健康を配慮することは、如何に重要であろう。何故ならそうでなければ、その霊は健康で完全な道具無し
に、悲惨にならざるを得ないからである。

432. 従順、愛、真理、真の学習以外、何も彼等の習慣にならないよう、愛と真面目さを持って監視し、若者の教育に、第1に主なる勤勉さを用いる義務
が、如何に重要であろう。

433. 何故なら、初めは無垢であった子供の感覚的愛着を、それが余り頻繁に表現され、充足を求めるようになると、正にそうした充足により、過剰へ
と成長していくからである。

434. この超過が習慣となり、第2の本性、プシケの病気、肉体の病気となる。即ちその程度が、より優れた霊の意志を抑圧し束縛するや否や、罪と或る
のである。

435. 人間の中にある霊体は、善で純粋で、悪を欲しない。しかしそれは、習慣の力-プシケの過大な愛着によって圧迫され、停滞させられる。

436. まことに霊は、宇宙で最も理性的なものである。どうして理性的なものが、いつ力俳理性的な事を欲するであろうか!

437. 又どうして人間はいつか不合理でなくて、不義者は公正であり、忌み嫌うべきものが、愛すべきであると主張出来ようか!

438. 人間の中にある霊体は、壮大で、善で、純粋である。霊体は自由であるなら、決して悪を望まない。

439. 誰が自由であるだろうが?自分の欲することを、随意に行動し許す者だけである。

440. これが正しく理解されなければならず、正しい適用を必要とする概念である。

441. つまり理性的人間は、理性的なこと以外何も気に入らないのである。

442. だから彼は、自分自身から自由に行動するかぎり、理性的で善であるものだけを欲するのである。

443. 誰が真に自由であろうか?未知の法則に従うのではなく、創造の意志によって自ら作うた法則、従って、創造に適った法則に従う者だけである。
 
   
444. 霊の法則は、ただ聖性さ、愛、義、合理性である。霊は、全ての非神性さ、不義、非理性を軽視している。何故なら霊は、徳あるものとして実際
に自由であるからだ。

445. 罪深く誤って生きる人には何の自由も無い。ただ偽りと奴隷的境遇があるのみである。彼は自己の法則ではなく、物質的法則と、自己の感覚的、
物質的愛着の欲望のみに従う。

446. まことに霊が悪を欲するのではなく、肉体の地上的我慾を持つ性質がそうするのである;人間がこの癖に負けると、彼は罪の人となる。

447. しかし人間は、理性によってそれに関する聖性、即ち、純粋理性に基づく意識的コントロールの行使能力がある。

448. この理由から次のようになる。即ち人間は、邪悪な情熱の陶酔のただ中にあっても、まだ思考する事が出来、その為彼には、善又は不正を行って
いるかどうかが、判っていると言うことである。

449. この知識は、理性によって霊の力からやってくる。まことに霊は、その創造的性質、法則、掟を決して否定出来ない。

450. 人間はこの壮大な感受性を、単純に良心と呼んでいる;良心とは警告する霊の声以外の何物でもない。その声はプシケにより無意識の中に、そし
てそこから物質意識に侵入する。

451. だから地球人よ、この声を押し殺し、鈍らせてはいけない。何故ならこの声は、貴方の中で貴方と共に語る、不死なるものであるからだ。

452. 或いは貴方は、貴方の中にある不死なるものを殺し、停滞させるつもりか? そして永遠の自殺者になるつもりか?

453. 或いは貴方は、召命を受けた理性的な本質を持つ聖性なる列に立つのを止め、家畜に成りたいのか?

454. いわゆる人間の中には、2種の法則が生きているのである。だから昔から次のように言われているのである:「私は何をして良いのか判らない。何
故なら私は自分(霊)のしたいことを決してせず、私(霊)が憎んでいることを行っているからである。」

455. 又次のようにも言われている。「肉体は霊に反して渇望し、霊は肉に反して渇望する。」と。

456. それが人間のあらゆる罪の真の根源である。人間の中にある霊体は、あらゆる法則の達成を望むが、人間の感覚的性質は、物質的なものだけを望
んでいるのである。

457. その時、抵抗の中で物質的な肉が勝利するなら、それはただ人間の責任である。何故なら彼は、最も僅かな抵抗の道を歩み、悲惨を導く習慣を、
自分のものにしてしまうからである。

458.そうして人間は理性の無い動物の様に自分の欲望のみに心を配り、より高きものを求めて努力する霊の意志を軽視する。

459. まことに我欲は、動物の性格である。一般的な幸福というものは、やはり霊の努力である。

460. そこから矛盾が成功するなら、自動的に霊は、肉体の我欲を持つ衝動に負ける。何故なら霊は闘争的ではなく、中立で満たす性質を持っているか
らだ。

461. 霊はその領域で、即ち意志と創造の法則と掟の成就における、唯一の王である。

462. そこでは霊は、ただ支配する。霊は、その統治圏が人間の理性によって拡大されない時、霊の直接の領域以外をも支配することが出来る。

463. 霊にこの可能性が与えられなければ、既に人間は罪を犯したことになる。

464. だから次のように言われるのである。『人間よ、自由であれ;しかし罪を負う者は罪の奴隷である。』と。

465. 人間の霊体は創造の霊から生じる。それは創造の子供である。即ちそれは、創造の似姿に創られた。

466. この理由から、人間の霊体の持つ内的法則と掟は、創造そのものの法則であり、掟である。それは創造によって、全てのために与えられている。

467. この理由から、人間の霊体は正に創造そのものの意志以外、何ら他の意志を持つことが出来ない。

468. 何故なら死すべき者の性は、創造の源を忘れ、昔からの誤謬に沈み、動物的な本能と我欲へと野生化している。だから真理と救いの道を新たにも
たらす為に、予言者が立ち上がったのである。

469. 正にこの理由から、現代においても、真理が遂に地球人を自由にするようにと、再度、予言者の地位が出来上がったのである。

470. だから預言は、次の真理の言葉を貴方がたに言っている。「私の教えを受け、その中に留まる者は真理の子供である。真理は貴方がたを自由にす
るだろう。」

471. この霊と人間の自由のために霊の教えは失われた道を示している。そうして人間は、地上的性質の持つ法則とその本性、そして動物的我欲と横暴
から自由になる。

472. 霊の教えは、事実人間が解放され、人間が自ずと普遍的万有の幸福を望む、霊の法則と掟に立ち帰るのに役立つ。

473. しかし全ての法則は、一つの言葉で果される:即ちそれは愛である。

474. だから地球人よ、貴方の隣人を自分自身のように愛し、貴方自身のように真理を愛せ。

475. そうすれば真理の中に自由が生まれる。そして人間は、真実により自由になる。そして、邪教、権力者、宗教、宗派によって与えられている、偽
りの奴隷的鎖に、再び繋がれない為である。

476. 人間の創造の霊体は、暴力的な本能、地上的性質を持つ習慣、人間の欲望に対抗するには、余りにも微弱すぎると言う考えを、決して受け入れて
はいけない。

477. まことにそうではない;創造はその様なものを、創造の法則と掟の中に決して認めなかったであろう。創造自らは進化をし、その成長段階におい
て、人間の霊体に頼っているからである。

478. まことに霊的な強さが十分に足りなくて、どうして人間の意識は、真理を求め、探し、それに従って生きるよう、人間に勧告出来るであろう!

479. 独自の意志が人間の霊体に委ねられると、それはその道具の上に、プシケと肉体の愛著と、本能の上に、信じられぬ力を持つ。

480. これは意志を主張し、行動に移す。 しっかりした決意が、霊体に委ねられる時である。

481. 地球人は、強力な霊力を持ち、多くの人々が痛みや病気の全てを克服し、最大の苦しみの中で快活に慰めを得ている剛勇の例を、十分に持ってい
ないのだろうか!

482. 身体の一部が火傷に見舞われたり、事故によって引きちぎれたりしたら、人間の利己心を持った性質は、そのことに身震いする。

483. 又何かの出来事により生命が脅かされたり、必然的に体の一部が身体から切り離す事が必須となったりすれば、人間は我欲を持って論争する。

484. しかしまことに理性的な霊は、全身を救うために、一部が犠牲にならねばならないと見るのである。

485. この意味で、霊はすべての物質的痛みを軽視させる。何故なら霊がそれを望むからで、それによって傷ついた一部は分離され、生命が救われる。

486. 霊は肉体の痛みを克服する。そして霊の道具は更に生きることが出来る。

487. まことに富と享楽に慣れ、突然最も苦汁に満ちた貧困に落ちた他の人々も、大いなる霊力を証明している。

488. 又、無実の罪に耐えねばならなかった不幸の中で、最も快活な冷静さによって、人間は大いなる霊体の力を証明する。

489. 何故ならまことに、自業自得の苦しみが、事実それらが人間による独自の罪から生じている時に、最も意気消沈させるもの、最も打撃を与える様
なものであるからだ。

490. なるほど苦しみは、忍耐させる。しかし意識は、自ら苦しみの責を負った事に耐えられない。何故なら真理はいつも厳しく、いずれにせよ人間は
真理を本当にしない。

491. 人間は沈思すれば、人間の霊が、貴重で聖なる事柄のためには、肉体の死さえも恐れない沢山の例を認識する。

492. 人間の利己心を持った性質が死を恐れて尻込みしたい時に、霊は次のように語った;「ここに死は、善で、大いなる事柄の為に義務付けられてい
る」と。そうして喜んで死が捧げられたのであった。  

493. このように、プシケと肉体を凌駕する断固たる人間の霊体の威力は、見紛うかた無く大きい。

494. どうして人間は、真面目な意志を疑うのだろうか?

495. この威力は、人間が断食し、身を苦しめ、あらゆる地上の喜びを断念し、どんな楽しみも罪と見なすことによって、簡単に起るのではない。

496. 又隠者として離れ家に逃れ、最も緊急な肉体の必要を担み、又あらゆる慰めや楽しみのみを諦めることによって、単純に起るのではない。

497. そうではない。何故ならまことに奴隷の霊も、自らを拷問し苦しんでいる肉体の中に住む事が出来、隠避主義、贖罪過程、苦行、自己障害等々は
、まだ一度も人間を形成したことが無く、彼から欠点と罪すら解放しなかったからである。

498. 地球人は、創造が人間の生命を理由も無く優美に飾るのではなく、創造はこの側面からも、人間の生命と幸福を増加したかったことを、非常に良
く知っている。

499. 又人間は、肉体の衝動、プシケ自体の感情、愛着が、全く無垢であることを知ってる。それらがより高き理性の法則と掟、創造と霊の意志に矛盾
しないかぎり。

500. 即ち人間は、次のことも知っている。霊体のあらゆる道具の保護、維持、完成のために、人間の地上的性質である我欲は、創造から与えられたー
部であることを。

501. 人間の自己愛の必要は、第一の目的。即ち肉体とプシケの健康維持を越えるものであってはならない。

502. その必要は、普遍的幸福の促進を求める、霊の法則と掟に矛盾しない。

503. 霊は自由でなければならず、肉体の本能、プシケの傾向と感情を単独で支配しなければならない。

504. 霊そのものは、暗い我欲の衝動を自然の範囲に戻るよう命ずる。この事も人間の衝動的性質にとって、如何に心の痛むことであろう。

505. 創造の名において、これが最も重要な関心事の明晰さである。

506. 人間は、恥に満ちて生き、祈り、畏敬を持って創造を見上げる。

507. 真理は厳しく、喜んで聞きたくないものであるという、真理の言葉を考慮せよ。

508. 又霊と真理の言葉の教えが、邪教の泥沼の中で、絶えず再び新たに働き、それが教えを新たにもたらす予言者自身のように、厳禁されることを思
え。

509. 何故なら人類の歴史において、助成的働きをする者、又その様な作用は、いつも第一に、異端だと言って誹誘されるからである。しかしこの異端
の中にのみ、人間の進歩が横たわっているのである。

510. 真理に対する頑強な防衛は、やはり真理は正しく、人間は意識的に真理に逆らって生きているのであると言うことに対する、極めて鮮明な象徽で
ある。

511. 真理に逆らって生きている者は、生命そのものである創造と生命に逆らって生きているのである。

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