001 思い切って、理解力を鍛えなさい ビリー著 地球人よ、私はあなたに、あなたがあなたのすべての道で常に必要な注意をしていることを望みます。また、あなたが常にあなたの人生を真の満足に導きそしてすべてをあなたの仲間とも分ち合えるために、愛情、幸せ、安らぎ、朗らかな気分、自由、喜びと調和を求めて努力することを望みます。それですから、人生のすべての騒々しさ、すべての絶頂とどん底の真っ只中を、あなたの善良で真っ直ぐな道を行きなさい。 ですから、世のあわただしさをあなたの上に来るに任せず、常にすべての物事の中で落ち着いており、そして、忙しなさが脅かしても、沈着さを発揮しなさい。 決して過ぎて多くを語らず、常に沈黙の価値について考えていなさい。何故なら、沈黙には多くの安らぎと想起が含まれているからです。 事実また、あなたの固有な意図、努力、観念、望みや空想が常にどんなものであろうとも、あなたの内部にいつも安らぎを保持しなさい。何故なら、人生の騒々しい混乱の中で、あなたの想いや感情はかなり特別に、すべての良いもの、愛する価値のあるもの、穏やかなもの、自由なもの、調和のとれたもの、幸せなものと喜ばしいものを必要とするからです。 いつも、すべての不当な仕打ち、すべての悲嘆と心配にも関わらず、またすべての涙を流す事ごとにも関わらず、取り巻く世界はその中にそれと共に美しいものや不思議なものだけでなく、しかも、時々、夢を壊し、幻覚として、すべての希望の予期した問題を出現させることさえもあることを考えなさい。 しかし、それはあなたに関係ないはずです。何故なら、毎朝太陽は再び昇り、新しい輝きと新しい温かさを世界とすべての生命形態にもたらし、そして、太陽が空を覆う、その軌道上の雲に覆われていてすらも、そうです。 そして、日々、太陽が新しく天に高く上って輝き、雲から出たり覆われたりするように、あなたは自分の中で輝くことができ、そしてあなたのすべての人生に輝きを与えることができます。それが見える形で外にでようと、またはただ自分自身の内部を明るくしようとどっちでもいいのです。あなたが自分の中で輝くことができ、そして、あなたの内部の暖かさをあなたの仲間の人間に伝えて行ける、いずれの方法ででも生きなさい。 また常に、決してギブアップせず、また常に、あなたは共に生きるために良い、連携した、正直な関係でいられる仲間たちへの良くて価値あるモデルになるように生きなさい。それ故、あなた自身はもとよりすべての人間そしてあなたの廻りの、自由な自然の中で、地を這い、空を飛ぶすべての生き物と平和に生きなさい。そして、また、創造と共に平和に調和して生きなさい。しかも、あなたが創造の下で自分自身に何を思い浮かべるとしても、です。 そして、あなたは、自分自身はもとより、あなたの仲間である人間、すべての生命と存在物と平和に生きると、あなたが観念で作り出すものや計画するもののすべてを可能にして、あなたを喜ばせてくれます。そして、同じように、あなたによって到達されたすべてのものについて喜び、そして常にあなたの想いと感情の強さによって、あなたがどのように、何に、そして誰であるかを決めるための力を持てることを意識していなさい。そして、その意味で、自立しそして強く、そして、決して屈しないようにしなさい。 そこから、たとえ人がつねにどんな者また何者で有うるとか、有ったかどうかは別にして、決して人に対する恭順の意を衰退させてはなりません。しかし、また、如何なる何らかの架空の神への、また如何なる天使や聖なるもの、そして、他の可能性の或る何かの虜にならないようにしなさい。 また、あなた自身に対して決して恭順に勤めたりせず、自分に対して常にオープンで正直で力いっぱいでありなさい。また、真実の人であり、そして個々の関わりで、自分が鎖につながれるかもしれないときですら、自分自身で決定する人間として、自身を尊重しなさい。 また、たとえあなたがあなたのすべての、内部の価値の中で、自分を自分自身からでなく、縛り付け、拘束し、縛って動けなくなったとしても、鎖はあなたの、本当の内部の自由そしてあなたの内部の平和と喜び、幸せと調和を決して奪い去ることはできません。また、個々の場合に常にあなた自身でありなさい。常にあなたは有るがままで、あなた自身を、また他の何ものを欺いてはいけません。 仮にすべてが不正直から作られて居るときにも、あなた自身の、また他の者の好意、連帯と愛を欺いてはなりません。(heuchleの正しい訳は?)ですから、また 決してそれらの価値を嘲ってもなりません。何故なら、それらはお金や財産より価値があるからです。ですから、常に本当の真理に好意を抱き、それをあなたの 中で活動させなさい;それをあなたの隣人や仲間の間に広げなさい。しかし、それを常に理性をもって、静かに、そして明確な言葉で行いなさい。しかしながら 、あなたは自分自身が喜んで話すのを聞き、そしてそれによって他の人に言葉を言わせないようなことを、決してしないでください。 また、あなたの話すことを必要なものに限定し、脱線しないようにしなさい。何故なら、長くて脱線する話はちょっとの意味しかもたず、聴いている人にあくびをもたらし、そして、それによって大きな不快と理解や注意力散漫を引き起こすからです。長く脱線して話す人は、常に、悪くて不機嫌な聴衆をもつことになることを考えなさい。長い話にはより少しの意味しかないですが、しかし、短い話にはより大きな意味があります。 常に、他の人の話を注意深く聴くことを心がけなさい。何故なら、あなたが自分でそうであるように、彼らは理解されるべき価値を内包しているからです。そして、常に、愚か者や無知な者はもとより子供や馬鹿者も、あなたの同じように、彼ら自身の、何らかの種類の言うべき何かを持っているということを意識していなさい。 彼らのみんなはあなたや他のすべての人々と同じように、自分の歴史、人生と心配や苦しみ、そして楽しみと悲しみを、喜んで語り、報告したいものをもっているのです。ですから、そのための可能性が彼らに与えられねばなりません。何故なら、彼らは、この関係で、あなたが彼らに対して自分を逆の立場に置かれることはないのと同じ権利を持っているからです。 また、何かの重要な理由がないかぎり、あなたの仲間に大声をださないようにしなさい。 :喧嘩好きにならず、また非友好的にならないようにしなさい。何故なら、個々の人は、最も悪い犯罪者ですら、友好的で平和的な方法で扱われたいと望むからです。しかし、あなたの側では、大声の喧嘩好きの人々を避けなさい。何故なら、あなたが彼らに関わると、彼らからはただ悪事と不満だけが生み出されるからです。 しかし、それにも関わらず、彼らを人間として尊重し、彼らに、正当であるすべての権利を容認することは、あなたの義務です。たとえ、誠実や人間関係が彼らと保持することが出来ないとしても、人間として、あなたは彼らを無視すべきではないし、しても良い事ではありません。しかし、個々の関係では彼らと常にあなたが可能な限りのベストを尽くしてください、そして決して彼らを蔑まないでください。 たとえあなたが、大声の喧嘩好きの人を避け、彼らに対して必要な距離を置いて付き合うべきだとしても、彼の言葉があなたに向けられ、またあなたの側からの言葉か必要になるときには、完璧な礼儀をわきまえ、平和的で正直であり、意地悪でなく、友好的に話しなさい。 これは、あなたがあなたの隣人に対して自分の中に決して憎しみを感ずるべきでないということを意味しています。何故なら、憎しみは如何なるものでも、いつも先ずあなた自身を傷つけ-第二に場合によっては隣人を傷つけるのだからです。あなたの隣人、あなたの仲間を常にあなた自身と比較し、決して彼に対して誇りやひねくれた考えを抱かないようにしなさい。あなたの隣人が赦しを請いにやってくるの、いつもオープンに、愛想よく、常に準備しているようにしなさい。 また、決してあなたが仲間を超えているなどと想わないようにし、また、あなたの価値が彼らの価値より大きいなどと考えないようにしなさい。何故なら、まことに、すべての人間は同じ量の価値があり、それらはまた常に同じでありうるのですから。人が善人として何かをしようが悪人として何かをしようが、人はすべて同じ一人の人のままであるからです。ですから、あなたの隣人、仲間たちを、彼らが法律や命令や単にあなた自身の意見、あなたのモラル、あなたの感情などに背いて何かをするとか下とかで、決して厳しく責めてはなりません。 常に、人によって、或いはあなた自身によって、なされた物事だけを厳しく責めなさい。なぜならば、法律とか秩序に違反すること、また法律や秩序に違反する人間の処置だけが厳しく責められるのであり、しかしながら、人間としての彼ではないのです。人間として、そのように批判のタブーについては触れてはならないのです。何故なら、個々の場合での法則と秩序を破った行為に対する責めだけが与えられることが効果的だからです。 しかしまた常に、人がすることは、一般に自分自身の意志と自身の考えで決定します;そして、まさしくこれは、人によって正しく訂正されなければならないことです。また、適当な相応しい人道的で合理的ややり方と方法で、間違った処置を取り除くこと、そしてその後、法律と秩序に適った方法で、人生と付随するすべてのものを克服することのために、その訂正は続けられます。また、個々の人はそのように、自分自身への責任を持っており、またこの点で隣人と同じに、個々の場合にあなた自身にも当てはまる権利を持っています。 ですから、あなたの隣人を見下してはいけません。また、あなたが、この世界で最も重要で最も知っている人間だという誤った見方をしてはいけません。何故なら、まことに、この点であなたより高い人間たちは存在するからです。彼らは仕事、知識、能力と働き等の色々な物事で、あなたよりも優れているからです。しかしながら、悲しんではいけません。何故なら、それは物事と進化の実際であるからです。 ですから、人生と進歩のすべての物事において、何時の日か同じように、何らかの理由であなたの上に何か重要な状態を達成するために、あなたが進歩し、あなたが努力することをのみ、あなたに助言され、勧められるのです。 それにも関わらず、あなたは常に次のことを意識していなさい。彼らの進化において他の人を留まらせず、同じように絶え間なく高く求めて努力するようにさせ、だから、彼らもあなたにそのようにし、もし、あなたがあなたによって目標とされたあなたの段階を達成したならば、あなた自身よりも更に先へと、より優れたものになるでしょう。 あなたの絶え間ない努力で、あなたは更に、あなたの考え、気分と行動のすべてに置いて、注意するように警告されます。何故なら、世の中には、あなたの耳をひっぱたくために、また、クリスマスの焼肉のように内臓を抜こうとするような、不正直やごまかしやそのような犯罪や罰に値する行為をして歩く人間だらけだからです。しかし、このことは、徹底的にあなたを欺くようなだれかと同じに、あなたが正直の価値に鎖をかけて、行動する根拠にしてよいものではありません。 常に、徳の大きな価値に意識をおき、高い観念に向けて努力し、静かな英雄的精神で満ちている人生を送っている仲間の非常に多くのものと同じようにしなさい。たとえ、それが喜ばしいものであろうと悲しみに満ちたものであろうと、常に人生の重荷を、正直で威厳を持って背負いなさい。それに加えて、あなたのやってくる年齢に感謝し、そして、あなたが青年時代にそれに与えた美しさをそれに与えなさい。 また、あなたの肉体に配慮し、それに必要な品位を示しなさい。その結果、あなたが肉体に利己心から、または、美化したホップの雄株の中での何らかの見え透いた無根拠から、それを虐待することなしに、どのように肉体があなたに与えられているのかに気づき、評価します。加えて、それによって、あなたが突然の不運を、悲しみを、或いは損害を増し、倒れてしまわないように、あなたの意識の力、そしてあなたの想念と感情に注意を払いなさい。 考えにおいて、常に明確で、道理をわきまえていなさい。そして、如何なる不安、孤独や疲れをあなたの中に生じさせないようにしなさい。何故なら、それらから、常に新しい不安や悲嘆や不幸が結果として生してくるからです。実行し、そして常にあなたのために自身で病気を治す効力のある意図的な規律を大事にし、そしていつもあなたに自身で友好的に愛を持ってそして品位をもっていなさい。 そのうえ、あなたはいつも、あなたが創造である宇宙の創造物の一つであるとことを意識していなさい。そして、あなたの仲間よりも、地に這い空を飛ぶすべての動物と植物よりも劣るものではないことを常に意識していなさい。また、星や惑星、流れ星、隕石、銀河や彗星もそれに属しています。 そして、これらのもののすべて、そしてすべてのあなたの仲間のように、そしてすべての種類のすべての生命体のように、あなたは、生きるために、進化するために、あなたの生活を愉しみ、そして、あなたにとって明確であろうと無かろうとそれがある筈のままの宇宙の力と共に生活を発展させて生きるために、この素晴らしい地球上の、ここに存在する権利を持っているのです。 (SAPERE AUDE - Wage es, Vernunft zu ueben : Translated by Hiromichi Thoma / Dec. 2001) ![]() 002 精神的な連帯についての、最も親密な形としての真実の愛 2015年6月10日 ビリー それが二人の人間の間の、自然、動物相や植物相との間の、また、あらゆる創造-自然なものと人間の間での愛であれ、真実の愛は精神的な連帯についての、最も親密な形です。 愛はまた、人間が一人或いは大勢の人間(pl)、また、自然、動物相や植物相そして、全宇宙にさえも心を開き、つまり、もっぱら、彼がそれらと愛の内で結ばれていると感じることを意味しています。 真実の愛は、ひとつの宇宙的なコミュニケーション形態であり、そしてそれは、無限に遠くまで広がり、強まり、そして増大し、また、あらゆる人間(pl)に、そしてまた、あらゆるものごとに及ぶ力があります。 それ「真実の愛」は、加えて知識や英知についての如何なる特別な認識も要求しません。何故なら、それらの価値(pl)は既に、真実の感性的な愛に含まれており、そしてそれらの形式と力に応じて働いているからです。 ですから、それは如何なる謎に満ちた、名状しがたい、また隠された力(pl)などは要求せず、むしろ、ただ、そのエネルギーに満ちた力振動を放射し、そしてそれでもって、すべてを織りなす、本当に真実な愛そのものの存在のみを要求するのです。 更に、この愛は生命の真の核であり、これ無くして何ものも存在しえません。何故なら、基本的に、愛は宇宙意識である創造から送りだされて発生したものであり、つまり、創造-自然の法則(pl)と掟(pl)に組み込まれており、そこ「法則(pl)と掟(pl)」から、最初に、そして最後に、あらゆる存在が生じたのであり、また、更に生ずるのだからです。 そして、この普遍的な愛は全大時的であり、そして、すべての時空を通して、同じ尺度で、絶え間なく振動しており、愛によって織りなされ、そしてそれから脈打って流れ出されないであろうものは、その時空を通して、何も存在しません。 もしも、この方法で、創造の愛について語られるならば、それ「愛」はこの全時間に渡って、絶え間なく、そして永遠の一様さで存在するのです。 しかし、この愛は人間(pl)のために、彼が自分で自身を、また一人或いは多くの他の人間を愛することができるように、違った形で与えられています。 そして、もしも、彼が他のひとりの人間を、真実の感性的な愛で愛するならば、その時、彼は全時間に渡ってその人間を愛し、つまり、時々刻々、日々、年々、そして全人生に渡って愛し、その際に、その愛は常に成長し、そしてより深化するのです。 しかし、このことは次の条件でのみ、適用します。すなわち、真実の感性的な愛が与えられ、それが真実の愛として最も親密な連帯を実証し、そして広がるものであり、あらゆる場合で浮き沈みや不決断と気まぐれを実証している、あらゆる想念的-感情的な愛から遠く離れたものであるならば、と言う条件です。 想念的-感情的な愛は、ものの観方や評価等に関する、人間のいろいろな物事(pl)に基礎を置いており、一方で、真実の愛は深いところに基礎を置き、強固で破壊されない感性に由来しており、曲げられることのない内部での連帯の形に相当しています。 愛のこの形、それは感性としての霊的な気質(Gemüt)から生じており、想念的-感情的な愛とは、如何なる比較でも立ち向かえるはずはありません。想念的-感情的な愛は人間が自分のものの観方、欲望そして想念(pl)や感情(pl)によって創りだしたものであり、つまり、欲求や気分次第なのです。 この愛「想念的-感情的な愛」の形は、しかし、変わり得るもので、従って、人間 - 彼が欲望(pl)、想念(pl)や感情(pl)によって創りだす、愛のこのレベルの低い形を創りだします- は、一方で全時間に渡って実際に愛することはなく、他方でまた、決して同じ方法で愛することはなく、つまり、その強度や変化する形(pl)におけるニュアンスの差、そして愛の種類の不安定さを創りだすのです。 この方法では、- 真実の感性的な愛とは対照的に - 人間を、或いは他の何かを実際に、決定的に愛することは、不可能です。 そのような想念的-感情的な愛は、自己欺瞞やしばしば嘘にさえ起因しており、それら「自己欺瞞や嘘」によって、単純な印象が呼びさまされ、そして個人的な欲望が充足されるでしょう。 しかし、このことはまさに、ほとんどの人間(pl)が愛という言葉で理解している事であり、そして彼らは、全体がただ、想念的-感情的であり、またそれ故非常に移り気で、自己の欲望と間違った願望の産物だという事実を知らないで、それを我が物としている、ということです。 そして、一般に彼らに、霊的な気質(Gemüt)から感性的な振動として生じており、親密で破壊されない連帯を創りだす、真実の感性的な愛が知られていない故に、彼らはまた、真実の愛が本当は何を意味しており、また何であるのかもまた、心に感じることが出来ないのです。 従って、一般に、想念的-感情的な愛の形(pl)のみが発生するでしょう。それら「愛の形」はしかし、殆ど長続きせず、深化することもなく、むしろ、早かれ遅かれ再び、消滅させられます。その消滅は、しばしば、早かれ遅かれ再び消滅される不確かな結婚の絆へと導くものであり、何故なら、それ「結婚の絆」は如何なる安定性も持ちえないからです。 地球の人間は、真の感性的な愛について深く知っていないし、また、従って、彼は、感性に由来しており、想念(pl)や感情(pl)そして無意味で間違った願望には由来しない、真実な、彼には知られていない愛に、如何なる信頼も持てないのです。 このことはまた、次のことに基礎を置いています。即ち、彼が、それ「感性的な愛」によって、永続的で破壊されない関係(pl)や内的な結びつき(pl)そして連帯(pl)が創りだされる、真実の感性的な愛に、如何なる本当の信頼をも持てない、と言うことです。 しかし、想念的-感情的な愛に関係して、-これは、ただ、うわべの愛に相当し、実際には、もはや、欲求や定義不能な欲望への自己クリップとして存在しており、-すべては、想念的-感情的な感情の動きの干満のように起こり、それと共に、上がってくる満ち潮で、惚れこんだものは、天まで届く歓声を上げてほめそやされ、そして、この世ならぬバイオリンで祝われ、一方で、しかし、全体は驚き、いさかい、悲哀、不和そして破壊の中での、引き潮で終わるのです。 突然、喜びや栄華から不安になり、そして惨めさが急激に広まり、厳しい現実に席を譲るのです。その現実は同情心を知らず、そしていったい何故愛はこんなに不安定なのだろうと言う疑問(pl)を奮い起こします。 もしもしかし、人間が、想念(pl)や感情(pl)、欲望(pl)や不安定な願望(pl)からの藁の山ではなく、深部にまで達する内的な感性的な結びつきや連帯である本当に感性的な愛と言う、真実の愛に愛着しているならば、その時、その愛から、永続する安定性、終わりのない持続と堅牢さが、定常的な成長の中で生じるでしょう。その成長は如何なる浮き沈みもなく、むしろ、愛の感性でのより強くなる定常的な動きのみを知っています。 この方法で、本当に真実である感性的な愛は、相並んで信用して話しあい、そしてお互いに常に愛の中で深く入り込む人間(pl)にとって、彼らが柔らかい微風のような自分たちの放射する温かみの中で、最も内面的なものの中で深部まで感じとり、そして幸せ感に浸るための、もっとも親密なマナーです。 そして、人間での、どんな他の深い感情の動きよりも、真実の感性的な愛は、私心の無さへと矯正する作用であり、その作用によって、真実の愛の意味が始めて正しく認識され、そして感じとられるのです。 真実の感性的な愛は、可能な限り、すべてのことがすべての人間(pl)と共に分かち合われるべきであること、すべてに於いて、如何なる悲嘆も起きるべきではないこと、すべての人間(pl)が、彼らがどんな信仰をしていようと、彼らがどんな民族やどんな社会的な階層に属して居ようと関係なく、受け入れられ、そして認識されるべきであると言うことを意味して居る、真実の人生です。 事実は、こうです。即ち、変るものが全く無い日常生活そして、愛無し、幸せな存在無し、また、平和、自由そして調和も無しの人生は、昔からこの世界で今日まで事実であるように、地球の人間に終に真実の愛が浸み込み、そして親密な結びつきと連帯が生じた時にのみ変わるだろう、そんな単なる一つ夢物語であると言うことです。 全人類がお互いに幾十億もの糸でのように結ばれており、従って、あらゆる人生は他の人生(pl)に依存しており、それに応じて、また、如何なる別な人生も、他の人生(pl)なしには広がることはできないのです。 そして、人間は、彼が疑いなく必要とする、創造-自然の法則(pl)と掟(pl)によって与えられている通りの愛によってのみ才能を伸ばすことが出来るのです。何故なら、それら「法則(pl)と掟(pl)」は彼の為に、そして彼の日常生活と人生に、とても多くのことを意味するからです。 しかし、彼は、すべてを知覚し、次のことを認識するために意識的に訓練しなければならない眼(pl)と感覚(pl)を必要とします。即ち、創造-自然の法則への合致性と掟への合致性の中に本当の真実の愛が含まれており、そしてそれが、人間と創造との間の最も親密な結びつきを形成するのだと言うことです。 SSSCにて、2014年2月12日00.09h ビリー ![]() 003 昨日、今日、および明日の心配についての考え どの地球年も私たちが喜びと苦しみの出来事の両方に従わせれる365の日々をもっています。それらの出来事は私たちを、或時は頭を高く上げて歩かせてくれますし、又他の時には、がっかりして頭を胸に落として歩かせるのです。 なぜなら、人は臆病、気がかり、悲しみ、痛み、そして疑いから、自由への権利を否定されるからなのです。 そしてまだ、多くの日々が過ぎるように、等しく、多くの日が、過去へただまた見えなくなるためにやってきて、私たちの支配力から退去していきます。 すべての過ぎ去っていく日々と共に、私たちの間違いと悩み、悲しみと欠乏は、私たちの深い悲しみ、痛み、および悩みとを伴いながら、今からも繰り返します。無常の法則の前では、どんな喜びも悲しみも永遠に残ることはありません。 過去でのすべては、私たちの支配力を越えて永久に退去します、そして、そうなりたいとか、約束とか、お金とか、所有とか、あるいは資産などのどれも、永久に、再びその鎖を結ぶ事はありえません。 今までに起こった何ものも、人によって取り消されることはできません。そして、私たちのパワーも宇宙のパワーも、私たちが経験したり苦しんだりした、どんなものをも逆戻しさせたり、または、経験されていない、あるいは認められて居ない何かに取り替えたりすることは出来ません。 話された言葉は消されることは出来ず、どんな行為も取り消されることは出来ません。なぜなら、過去の物事は永遠に過ぎ去り、元に連れ戻すことができないし、出来事を新しいものにしたり、経験した実際の瞬間に戻ることは決してできないからです。 過去であるものは、私たちが経験したすべての出来事、恐れ、気がかり、喜び、悩み、悲しみ、痛み、障害、儲け、損、そして起った他の物事と共に、良いものとして去らさられます。これは昨日でも、一昨日でも、すべての他の日々、過去の年月について真実です。 過去を心配することは、することがむだであって、したがって私たちの進歩と成功を妨げます。単に考えが足りない人々は、これまでの経緯の哀調、心配、痛み、恐れ、および疑いでころげ回ります。 なお、物(事)を心配することによって、私たちが本当に重要な事柄を思い出せずに見逃すので、明日および未来の事柄を心配することも、また知力に欠けるものであり、また堕落しているということです。 これは、私たちの考えかた、感じかた、および行為のマナーを、そわそわさや不適当さへと陥れ、欠点がある活動、思考、越すことができない困窮で動きを妨げられる失敗へと順に導くのです。 明日、それ以後の日、あるいは他の未来の日々と時間について心配することは、それに対して個人が無防備である破壊的な考え、感情、および活動と同様に、悲観的な約束、貧しい成果の結果をもたらします。 明日あるいは明後日の将来に存在する、或いは、それ以後の日々や時間に存在する一つ一つの日々において、私たちが対抗したり、変えたり、影響を及ぼしたり、あるいはガイドすることができない、それらすべての事柄に影響を及ぼして対処しなくてはいけません。これにより、私たちは、毎日の戦いの勝者になり、したがって、それぞれの日の最もすばらしい利益を手に入れるのです。 私たちは、それらが私たちに提供する、それらの利益、および最高のものを手に入れるために、たえずそれらを征服し、そして恐れ、気がかり、深い悲しみ、心配、痛み、疑いなどを消化吸収しなくてはなりません。 私たちは、昨日のもの、今日のもの、明日のものをいっしょくたにまとめてを集めたり、貯めてはいけませんし、また、その中で転げ回るべきでもありません。なぜなら、そのことが私たちを潰すからです。 どんな否定的な事が現れ、それらが如何に骨が折れ、衝撃的で在るかに無頓着であるとしても、それらのことは、私たちの生活における一つの単なるエピソードであり、それらは数秒以内で、とりかえせない過去へと避けていくでしょう。 ゆえに、そのような否定の事柄は、できるだけ速く合理的におよび論理的に征服して消化吸収されるべきです。したがって、これにより、深い悲しみ、心配、恐れ、痛み、疑い、気がかり、および他の物事が、私たちのためのヘッドロックになって、毎日の恐怖になるというような、慢性の荷にはならないのです。 概して、当日だけの経験や出来事はめったに私たちを恐怖や失望やその他似たような物事に投げ込む事はありません。 それどころか、一日の経験、および出来事は、私たちをノイローゼにしたりしません。 ですが、私たちは通常、一方で明日、その次の日、未来への恐れ、気がかり、悩み、深い悲しみ、および疑いを持っています。一般に、人々が、しばしば、最後の瞬間のパニック攻撃を経験するためです。他方では、私たちは、昨日起こった物事、前日あるいは何か別の過去の時間での物事についての罪を経験します。私たちの記憶は、明日および近い将来が持って来るかもしれないもの恐れおよび恐怖を作りだす過去の物事を捕えています。 私たちの生活は、とても物質に富んでいます。それらは、数え切れない否定的な、また肯定的な物事で絡み付いて織りあわせられています。また、それらと取り組んで生きるために、中性-プラスの平衡を保って、物事での私たちの経験を形づくるために、私たちのパワーの中に、それはあるのです。 それゆえに、私たちのすべては、ほとんどの日々を、恐れ、気がかり、痛み、深い悲しみ、疑い、心配、またはその他同様のものをなくしましょう。かわりに、私たちは、私たちが自分たちの人命の最後の瞬間に明朗で、また自由で、および尊厳をもって次のように述べることができるかもしれないように、これらの物事を征服してマスターすることを学ぶと良いでしょう。: 「私は、私の人生を正しく、そして進化の充たしの中で生きてきた。そして、私は創造の法則の義務を満足させてきたと評価している」と。 ビリー(1998年7月4日) 私訳:Hiro 原文はFIGU小冊子Gedanken zu Sorgen im Gestern, Heute und Morgen ![]() 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