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宗教、人間の想像力による生産物

世界とそこに住む人間は、今日すべてに非常に進歩していますから、もはや人間世界と全宇宙が、ある大いなる力によって創造されたものであるのか、・・・という点について、じっくり考える必要は無くなっています。

創造は、男性でも女性でもなく、単に無性の人称として、中立的に名称されます。従ってこの創造は、あらゆる創造に必要な要因をそれ自体に含み、否定と肯定を中庸に持っていると表現されます。

しかし地球人は、絶対的無性の意味を持つ女性形容詞を想念しています。何故なら無性の「それ」という創造が話されるより、性を超えた特定の創造概念の方が地球人には判りやすいからです。

他方、女性形名詞には、創造の完全な権利が含まれているのです。何故なら、創造は産み、創造するものであるからです。

非常に進歩した世界と其処に住んでいる住民に次の問いがあります。即ち、信仰、宗教、聖書、教義その他の書物に対して、更に宗教、神、創造と取り組んだもう一冊の本が必要ではないかと言う問いです。

このことは、この書物を学習したものなら誰もが、明らかに「イエス」と答えられるものであり、疑う余地は有りません。既にあらゆる信仰告白が迅速に粉砕されていますが、その理由は次に有ります。

人間は宗教のゾッとする物語や作り話を、より多く、より長く認識すればする程、真理を求め始めると言うことです。そしてこれは確かな真理であり、証明可能でなければなりません。宗教は証明不可能であり、証明不可能であり続けます。
   
何故なら宗教は、人間によって創造された「啓示」を提示しているだけであるからです。それは人間的思考の特徴である非論理に基づき、理性的な人間なら誰でもそれが「証明可能な嘘」であることが判ります。

従って礼拝宗教も人間の想像力の産物であるかどうかと言う質問に対しても、絶対的な明確さで「イエス」と答えることが出来るのです。

それは事実であり、理性ある人間なら誰でもそれを立証出来るからです。但しその者が信仰の狂気により礼拝宗教に囚われていなければの事ですが・・・。

地上に存在する狂気を基とする礼拝宗教は、特別に顕著な共通の特徴があります。即ち、礼拝宗教の創立者はすべて男性であり、熱狂的な貫徹意志を持った人間であるということです。僅かな例外を除いて、(王様やその他)彼らは皆非常に貧しく、物質的財産には恵まれていません。
    
彼らにはあらゆる権力と人望が欠けていましたが、その礼拝宗教の設立により、満ち足りた心配の無い人生を送ったのでした。なるほど真実彼らはそうした人生を努力して求めたのですが、しかし彼らの多くは非常に富み、権威を得、その子孫の多くも今日なお、その余得を受けています。
    
多くはいわゆる「預言世界」以前とその間の期間にある人々で、彼らはすべての人々を除外し、他人を犠牲にしてもお金や財産を欲し、又は人々の邪魔をしたのでした。

非常に多くの礼拝宗教設立者が、そのような道を歩み、例外なくこれらの人々は貧しい民の愚かさを食いものにし、自分達の目的のために利用したのでした。

彼らはこうした世界の小さき人々に向い、しばらくすると突然に信奉者を引き連れ庇護された暗闇から明るい光の中に歩み出て、電光のように高く掲げられ、彼らによりだまされた人々の暴威的な歓声の高まりに、更に支えられるのです。

昔から彼らの希望は、支配者の監督下で、良く働く市民として送らねばならない人生より、もっと素晴らしい人生を送ることでした。こうして暴威的な民衆の力に支えられ、礼拝宗教の設立者は全地をその「神の教え」と「神の霊感」で惑わし、勝ち取ることが出来たのでした--必要な楊合には、武器の威力と火災、殺人の手段を用いて。

更に礼拝宗教の設立者は、殆どすべて、実際には屡々憎しみの対象となり、その投げやりで犯罪的な生活方式のゆえに、様々に文句が付けられた人々であったのでした。
(キリスト教精神を見て下さい。それは真実にはパウロ主義に他なりません。パウロは、その礼拝宗教的行為を取った故に殺人的な、捕吏だったのでした。)

彼らが詐欺師、嘘付き、殺人者と見なされ、神的な存在と見なされることは無かったことは、全くどんな点から見ても明確なことです。即ち創造が意味され、絶対性が保持された存在として。

又、これらの宗教創立者は、主に犯罪者であったことは、当時の人々が皆認めている事項です。彼らは口を揃えて次のように述べているのです。つまり、これらの礼拝宗教創立者は、「召命」される前は、不名誉で放蕩なイカサマな生活を送っており、それから突然純粋な「神の存在」に成ったのだと。

即ち礼拝宗教は、人間による駄作にすぎないという真実は、以上によって証明されるものです。
    
最後に、これら礼拝宗教設立者達は、ほんの希な場合において、指導者として必要欠くべからざる全ての条件を備えていたのでした。彼らの多くは、その時代の芸術や総合文化について全く無知でしたが、知識と教育を十分に備えた使徒とか、その他の代理人とかと呼ばれたのでした。

彼らの教えは大抵男性に伝えられ、たとえそれが完全に無意味な実現不可能な理想郷的なものであっても、人々は新しい礼拝宗教の監督下に置かれるのが普通でした。しかし理想郷的証明不可能な邪教は、昔から大衆を暗示的に感化し、魅了する最高の手段であったのでした。
    
何故なら人々は、その理想郷の夢に、長い奴隷生活や不満足の存在からやっと解放される糸口を見出せると思ったからです。しかし真の知識を備えた真の預言者がやって来ると、彼らは預言者を除け者にし、殺害したのでした。
    
そして嘘付きや詐欺師、偽預言者が、誤った偽りの邪説と虚しい大袈裟な約束を唱えてやって来ると、大衆はどっと彼らを追いかけ、聖人に選んだのでした。彼らの誤った虚しい約束が、より空想的で偽りのものであればある程、それが低俗性と汚れに満ちているとしても、それだけより多くの信奉者を見出したのでした。これは今日も変わりません。
    
新しい宗教の邪説を受け入れることによって、人々は以前よりももっとひどい隷属状態に陥ったのでした。何故なら、子羊達を奴隷化し、彼らから絞り取るのは決して宗教だけではなかったからです。
    
直にその時々の政府が登場し、それらの宗教と結託したからです。そして新しい宗教信奉者は、まもなくこの政府によって搾取され、もっと厳格な監督下に置かれたからです。当然政府は次のことを知っており了解していました。

つまり、真理と真の知識に関して、決して普通の知恵ある条件を備えていない礼拝宗教創立者によって、神の宗教やその「神の教え」のための嘘八百が人々に普及されると、その結果政府は途方もない影響力を獲得するということを・・・その為に、政府は宗教との結託に応じたのでした。
    
それによって政府自体は、絶えず強固に人々を管理することが出来、更にもっと搾取することが出来るからです。まもなく新しい礼拝宗教の設立者と政府、そして愚かな信者達は、礼拝宗教の物質的利点を認識し、それに手を出し儲けるのです。
    
そして彼らが自分のためになる物質利益や利用価値が見出せない時、小さい平和な結社の首を締める試みをするのです。昔からどんなに誠実で正しい真理の告知者も、又、本物の預言者も革命家であったように、礼拝宗教の設立者は、狂人、精神異常者、犯罪者、詐欺
師、嘘付きの革命家であったのです。

知識、知恵、愛、平和を創造の範囲で教える本物の預言者、正しい誠実な真理の告知者とは反対に、礼拝宗教の設立者は、その偽りの神と誤った教えを持って、不幸、死、殺人、犯罪、戦争、大量殺人のみをもたらしたのでした。
    
常軌を逸して堕落し、真の基本教義を退廃させた礼拝宗教は、罪の無い人間の流血と残虐な殺害において、ずば抜けたものを持っています。その際、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を考えてみて下さい。そして一度礼拝宗教の教義を詳しく観察してみれば、次のことに気が付くはずです。
    
礼拝宗教の教えは、その時代を支配している政治的宗教的流れに撤頭徹尾逆らう教えであったと言うことです。その時々に於ける時代精神を絶対に否定した教えは、例外無く激しい論争、流血の虐殺、あらゆる種類の事件を招いたのでした。
    
その為しばしば全地が破壊され、焼失され、血飛沫の中に埋投するかのごとく見えたのでしたが、絶えず新しい礼拝宗教は血の中で勝利したのでした。何故ならその敵、又は否認者達は、全く単純に絶滅され、殺されたからです。
   
これは礼拝宗教設立者とその熱狂的信奉者だけの成功ではありませんでした。狂信的な礼拝宗教信奉者は、政府の中に手っ取り早く潜り込み、政府軍も彼らを援助し、礼拝宗教設立者のために殺人の奉仕をしたのでした。それは今日も同じです。反対者は減少し、やむを得ず逃亡するか、隷属に甘んずる他無かったのでした。

エクナトンの時代、彼の唱えた新しい唯一神教は、当時の人々に取ってどんなに奇異に聞こえたことでしよう。エジプトの民は、その教えにただ強制的に屈服し、エクナトンの死後、再びそれから疎遠になったのでした。
    
その唯一神教は、モーゼによってヘブライ人にもたらされ、この威張り屋の民に宣教の温床を見出したとき、彼らはその教えを、唯一神教として自分達のものとし、容認したのでした。それまでのヘブライ人は、独自の宗教を何も持っていず、宗教を身に付けることを渇望していたのです。
   
既にモーゼの時代に、エクナトンから借用した神教が、ユダヤ人に取って、途轍もないものに思われていたなら、その後約1500年してイマヌエルが霊の教えを説いた時、この新しい教えは、ユダヤの民にどんなにか奇異な作用を及ぼしたに違いありません。
    
しかしこの教えは、再び偶像崇拝と物質主義との関わりを持ったのでした。それは昔からユダヤ民族の特徴とされたもので、その無節度においては、他の民族に比べるものが有りませんでした。
    
イマヌエルの霊性は、物質的なユダヤ民族にとって、如何に未知なるものであった事でしよう。彼らの関心の的は、世俗的権力であり、それと結び付いた堕落した生活でした。それはユダヤ人を監督し、虐げていたローマ人の特徴でもありました。
    
イマヌエルの教えが、互いに近親相姦的な関係による結合を禁じた時、ユダヤの民に取ってそれはどんなにか、言語道断な教えに見えたでしょうか。父親はその娘と、又息子はその姉妹や母親と性交してはならないということは、宇宙の成立以来、法則によって定められているものです。

そうした習慣は、イマヌエルの時代に至るまでずっと、ユダヤ民族の間で行われていました。こうした人間の尊厳を冒涜するような習慣が圧倒的に支配するユダヤ民族に、イマヌエルのもたらした霊の教えは、堕落した民の耳にひどい侮蔑的なものに響きました。
    
ユダヤの民はその成立以来、絶えず権力、殺人、復讐、快楽をやたらと渇望して、うめき声を上げていたのでした。
    
しかしイマヌエルの教えがユダヤ民族に言語道断に見えたと同じく、遠いインドにおけるクリシュナの教えも、そうであったに違い有りません。クリシュナは、イマヌエルとは対照的に戦争を説き、一方では人間は物質世界から身を引き、隠遁生活を送り、霊的進化をしなければいけないと教えました。
    
人間生活の全ての面に触れるゾロアスター教の新しい教えがもたらされた時にも、放縦なその世代の人々には天変地異的作用を及ぼした事でしよう。イスラム教の設立者であるモハメッドの教えも、最初は突飛で非常識、言語道断に思われたに違い有りません。
    
モハメッドは異邦人、ユダヤ人、仏教徒、キリスト教徒、ヒンズー教徒等に、アラーの比類無き偉大さのみが正しいことを信じ込ませたのでした。その時、このアラーの偉大さと比類無さは、全くのでっち上げであることは、彼以外.誰も知りませんでした。
    
それは今にも血生臭い礼拝宗教に押しつぶされ、破壊されそうになっていた地球人類を救おうと言う目的でなされたのでした。そうしたモハメッドの策略は、その様な形で処置しなければならない事が、認められていたことを物語っています。
    
何故なら、こうして予定された処置のみが、当時圧倒的に支配していた血と憎しみの宗教が、僅か数百年も経たない内に、全地球人を嘘八百で完全に盲目にし、恐ろしい宗教戦争によって、人類が無慈悲にも自滅してしまう程に、蔓延しない処置であったのでした。
    
こうしてモハメッドが登場し、彼はその独自の方法と主義に反する処置を取り、新しい礼拝宗教を設立したのでした。それは他の全ての宗教に刺激を加えるものでしたが、残念ながらそれは、唯非常に困難な戦いによってのみ成就することが出来たのでした。
    
こうした処置行動が、それからやってくる1500年の内に、地球人が血生臭い礼拝宗教によって、人間独自の意志と思考能力をすっかり失くすような隷属状態にならない防波堤になったのでした。
    
又それは、異端審問で地球人の半分がキリスト教徒の狂気によって虐殺されないようにすることを保証したのでした。カトリック教会によって、たったの「900万人(実際にはその倍の値が記録されている)」が無実の罪により虐殺されたからです。
    
又モハメッドの教えは、あらゆる礼拝宗教の持つ殺人的礼拝宗教法則が、次第に人道的になり、地球人が自分の思考と独自の力で自ら決断出来るようになり、礼拝宗教から解放され、真の真理に取り組む力を再び得ることが出来ることを用意したのでした。
    
モハメッドは大詐欺師でした。しかし、彼の大詐欺師精神は、血生臭い礼拝宗教による完全な滅亡と破滅から、地球人を救う為に予定されたものであったのでした。そしてそれを彼は見事に成功させたのでした。残念ながらここには、純粋に地球人的制限をもった、まだ一度も計画されたことの無い、事件に導く問題が関与しているのです。
    
しかしここでもイマヌエルと同じように、こうした出来事は当事者(モハメッド)の死後、初めて判明したのです。そうすることによりモハメッドは、ある問題ついて責任を負う必要が無かったのです。
    
彼は大山師、詐欺師であるにも拘らず、預言者としの使命を果たし、真に尊敬に値する人であったのです。イマヌエルや他の預言者もそうでありましたが、モハメッドの教えが偽造されたことに対する責任を、彼は一切負わないのです。
    
又今日コーランは、その行のすべてが、モハメッドが口述筆記させた通りのものであると主張することは間違っています。モハメッドは、今日圧倒的に誤って解釈されているコーランの責任者ではありません。
    
何故なら誤った解釈は、後にイスラム教を利益のために強奪した人々、特にカリフ(モハメッドの後継者とされるイスラム教徒の支配者の称号)による、誤った解釈、説明による作品であるからです。こうした全く意識的に歪められた注釈により、コーランの意義も偽造されてしまいました。それはモハメッドがその民をだまし、(これは常に宗教創立者の場合に当てはまることですが)モハメッドの民のみが「選ばれた」民であるかのような印象をあたえています。

それに対する真の意味は次に有ります。つまりモハメッドは、その民に、彼らが最高の民であり、彼の預言者としての使命に忠実に、それを成就するだろうと説明していることです。コーランの篇3アル・イムラン(AL-IMRAN)3 節で、モハメッドは次のように語っています。

「貴方がたは人類の繁栄のために成立した最高の民であり、貴方がたは、権利を要求し、不正を拒み、アラーを信ずる」と。

即ちモハメッドは、表面的には宗教の設立者でありましたが、地球人が礼拝宗教によって自業自得の破滅に陥るのを救うために、完全に予定された人物であったのでした。この使命に答えるために、彼は理論的暴力に訴える手段を取らなければならなかったのでした。
    
更にモハメッドがイマヌエルの託身(同じ霊)であることを知るなら、もっと言語道断な感じを、地球人は受けることでしよう。
   
イマヌエルは、エレミアの託身であり、エレミアはイザヤの化身であり、イザヤはエリアの化身であり、エリアの本来的生得の預言者の起源はエノクにありました。
   
モハメッドは、イスラム教の設立者である故に話題になりましたが、彼を地球上の普通の宗教設立者と同じ地位に置いてはならないのです。こうした形は、地球人類を救う為に、前以てモハメッドに予定されていた「摂理」であったのでした。

そしてそれは見事に成功し、それ以外の何の目的も無いものでした。そうでありますから、モハメッドはありふれた低俗な宗教設立者と同等に扱われてはならず、苦境における真の救い主と称される事が出来るのです。

その当時、彼は全く地球人として重大な任務を持ち、それを成就した人物であったからです。何という創造に対する深い畏敬の念、何という地球人に対する深い愛が、モハメッドに求められたことでしようか。
    
彼はその苦しみを全て一人で引き受け、背負ったのでした。このことは地球人には全く理解されないでしよう。何故なら、人間にはこれに関した理解と可能性が欠けているからです。これはイマヌエルが不屈にも背負った、彼の人生と地獄の苦しみー一人間の愛と幸福のためにー一に関する理解と可能性が人間に欠けていることと同様です。

これら全てのことは、人間は隣人の幸せのために、単に単純な愛を与えるだけではなく、必要な場合には、厳しい論理的な暴力が行使されねばならいことを証明しているのです。
    
しかしこれも又、地球には理解されない事実なのです。昔から宗教設立者は、隣人の信仰と迷信を利用し、彼らを魔法の杖や手品師のはったりで、ペテンにかけ、彼らに「神聖な宣教」を実験して見せたのでした。これは昔からそうであり、今日においても維持されています。

それらには低俗で巧みな手品が使用されたのですが、これら全てのトリックは、あらゆる時代の無知で迷信的な人々により、自称「神の使者」や「預言者」の印、奇跡として解釈されたのでした。これは今日においても同じです。
    
宗教設立者はその活動の初めから、絶えず勝利を宣言していました。何故なら彼らは、大いなる約束を唱える新しい教えが、絶えず抑庄されている人々に受け入れられることを全く確信していたからです。
    
こうして彼らの預言を妨げるあらゆる抵抗(それは自動的に前世とその無資力さ、深く心に刻み込まれている納得、理解より生じたもの)にも拘らず、それは成就されたのでした。その預言は既に宗教の虜になっている人々によって、当然「神託」として再び評価されたのでした。

何百万という人々が、宗教設立者に勧められた事を、時代の流れの中で行ってきたのでした。彼らの最も小さな思考、言葉、行動、処置は、権力欲に飢えた「教師」の誤った教えにより決定されたのでした。

そしてこの誤って導かれた何百万人の人々は、かつて誰一人として、何故? どこから?と言うたった一つの小さな質問すら、投げ掛ける勇気を持たなかったのでした。

何故なら彼らは、その信仰により、想像上の神の前に、絶対的な謙遜を叩き込まれていたからです。その神は今日も、「その子ら」に、どんな思考も研究調査も禁じ、人々を混迷の泥沼の中に這いつくばらせます。昔から、必ず真理に至る道を開いたと思われる研究調査はさて置かれましたが、信仰や「優美なる神性」について憂慮することは、死刑を持って禁じられていたからです。
    
即ち、あらゆる宗教設立者によって信者に示された神は、存在することの無い空想上の存在であったか、又は普通の人間であったのです。つまり創造主に昇進した宇宙人であったか、自称神とした地球人であったのでした。

宗教設立者は神の存在について、念入りに信者に説明したことは決して無かったのです。大抵の場合は、誰か指導者的天分を持った人間が、独特の恩寵を持つ預言者に祭り上げられたか、何かの妄想が、丁度神についての好奇心を掻き立てたかのどちらかなのです。
    
しかしその妄想は、大抵宗教に終わってしまうのです。宗教はいずれも、人間を霊的誤謬と白痴に導いたか、そうした状態にしているのです。それによって人間を、搾取し、奴隷化することが出来るのです。

Das Christentam
宗教、人間の創造力による生産物 
ビリー著

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性の交代

(重要な知識 ビリー著 より転載 : H.Thoma)

人間の性は再生を通して変化する。これは昔から知られた事実であり、誰もこれを拒むことはできない。これについて疑問が起るかも知れない。何故、どの様にして、性の交代が行なわれるのかと。何故、地上の人間は男や女として生き、次の生で別の性に交代するのかと。そもそも、再生を通して性の交代を示す事実とは何かと。何故、性の交代が行なわれるのかと言う疑問には答える事は出来ない。

 又、たとえ答えたとしても、厳密には答える事は出来ない。何故なら、この『何故』と言う問いは、各人の絶対的なプライベートの領域の中にあるのだから。一人一人の再生における性の変化の理由は、間違い無く人の中に存在するのだ。この『何故』は、全く個人的な問題なので、大勢の人間に適用する基準を作る事は不可能である。だから『何故』と言う問いに対する説明は、共通点を見つけ出す作業にならざるを得ない。しかし、その共通点は基準とするには早すぎる様だ。例えば、何故、女性は今度の人生で女性として生きるのか何故、次の再生の時には男性となるのか。これに対する答えは、根本的にはその当人の意志によるのであり、その意志は再生の法則に従うのである。

 創造と、全ての存在の怯則は、はっきりとこう述べている。人間(生命)は全ての問題について、自らの意志によって自己決定すべきである、と。この創造の法則は『あらゆる事柄』に自己決定を要求するので、再生の法則にも自己決定が要求される。正に、再生の法則は七層の法則の全ブロックの中に含まれているのである。これによりはっきりする事は、人間の再生全般の問題と、再生の際の性決定は、全ての面で自分自身で行なうのであること。つまり、各人は物質的人生の中で、次の再生の際に男性に生れるか、女性に生れるかは、自己の意志で決定しなければならないと言う事である。

 次の再生の際に、男性に生れるか、女性として生れるかは、当人の全ての思考と行為に依存する。つまり、彼は自分の思考と行為に応じて、次の人生の性決定を形成する。しかし、一般に彼はこの決定を無意識に行なうのである。と言うのは、彼は性決定に関する必要な知識を所有していないからだ。或る人間が性交代を強く願望すると、無意識の意志が作られ、それに相当するインパルスが性を決定し、当人の性は、次の再生が行なわれる過程で、女性から男性へ、或いは男性から女性へと変化する。人間がこの様な性変化を引き起す『理由』は、ここで説明した様に、本人の意志によるものである。

 彼は、自分の意志によって性を決定する。この『何故』に関する問題に戻るが、『何故』人間が性変化を起すかと言う問題は一般の大衆にとって不可解である。性変化を起す要因は数多く有り、しかも様々であるから、一人の人間(或いはコンピュータ)が、これを理解する事は決して出来ない。例えば、愛と憎悪、コンプレックスや不安等が、再生の際の性変化に大きな影響を与える。これから明らかな事は、これに関して一つの基準を導き出す事は不可能である。これは、人類の大多数に言える事である。もし或る人間が男性になるか、女性になるかを知りたければ、彼の全ての心の動き、感受性、思考、固定観念、感情等を正確に分析し、確定し、それによって決定作業を純化すれば、最後に再生過程での性決定を知ることが出来るであろう。

 性変化(或いは単に性決定と言う)は、本人の独自の意志によって、彼の強力な個性を形成する。もし彼が、自然の法則に従って正しい生活をしたいと希望するなら、彼はこの事を顧慮した方が良いし、又、そうしなければならない。これはこう言う事である。性決定における意志の強さが、彼(又は彼女)が、男性或いは女性として現れるかどうかの最大の決定要因になる。この意志力と決断力は、再生する人間の霊を形造るのではなくて、ただ単に当人の物理的身体を形造るだけである。

 換言すると、決定力としての意志の強さは、物理的身体(肉体)の性の現れ方を決定し、当人の生物学的組織を生み、決定すると言う事である。と言う事は、更に、人間の組織内のホルモン活動、ホルモン制御の全機能が決定される事になる。ここで、男性と言う性の現れる仕方と、現れない仕方を例に取って見よう。或る女性が、次の再生の性に男性を決定したとしよう。彼女は確かに男性となり、その決定に従って男としての体形を持って現れる。これを次の例で説明しよう。男として生れたいと云う意志力が非常に強い場合、当人は再生の際、男として生れるのである。その人間は、男性的力を持ち、あらゆる点で心の男らしさを体現するのである。彼の身体的力は、健康で強力な男性の力であり、彼の全身体と全組織が男性的特徴を示すのである。

 彼のホルモン分泌は釣り合いが取れており、彼の全てが完全な男性的傾向を示す。つまり、髪の伸びかたも男性に相応しく、身体のしかるべき位置に毛が生える。性活動に関しても、著しい特徴が見られる。男性は単性性行動を取る。つまり、彼の性的関心はもっばら女性に向かうのである。従って、彼は両性性行動を現わさない。彼は男性として出現した事により、同性に対して性的に先天的嫌悪感を持つのである。次に比較の問題として次の例を掲げてみる。前述の例と違い、決定要因としての意志力が弱い場合である。これはホルモンの分泌機能が不完全で不安定になるので、髪の伸びかたも弱くなり、女性の性格を示す様になる。性行動についても、彼は女性へ向かう単性性行動が弱まり、両性性行動が現れる。これは、決定力が不安定になるからである。男性としての優勢なパーセンテージが変化し、両性のパーセントヘ傾く。この現象は、地球の科学によって、ようやく確認されたものであり、最早否定する事は出来ない。

 両性性行動の傾向が発現する度合は、意志力と想像力(表現力)によって決定される。これらの力が両性性行動へ移行する原動力であり、その力の強さは測り知れないほど大きい。そこで、次の再生で男性になる場合、両性性行動は僅かしか発現しない(これが普通に起る現象である)。と云う事は、この行動は意識には現れず、無意識の中にだけ存在するのである。無意識に沈潜したものは強い刺激を受けると、突如として意識へ飛び出して来る。つまり、男性の中の無意識の中に存在していた女性的インパルスが、強烈な刺激によって意識へ飛び出し、優勢になり、当人である男性は女性的行動を取り始め、男性を愛する様になる。つまり、同性愛に陥るのである。決断力、意志力や想像力が無い為に、ホルモン分泌機能が不調になると、同性愛行動が顕著になる。しかし、その行動の強さは変化する事もある。堅固な意志力、決断力、想像力の獲得に失敗した場合、今度の人生で同性愛行動は表面(意識)に現れないが、次の人生(再生)でその人間は両性人間、つまり、女装(又は男装)、半ば男性、半ば女性に変わる。

 今述べた真実の現象を通して、人間の物質的意識の領域において、自己の意志が次の再生の性決定の決定要因である事、つまり自己の意志(自己決定)が、自分の全ての問題について、自分の全存在を方向づけ、決定すると言う事が明らかになったと思う。これは男性であろうと、女性であろうと全く平等である。と言うのは、両性は同じ法則に従うのであって、この法則を回避することは決して出来ないし、又両性の間に少しの差別も決してあり得ないからだ。

 性決定の問題を、もう少し引き伸ばして説明しよう。人間の意志力、自己決定能力、想像力は、次の再生の性(その性の出現の強さの度合)を決定するだけでは無く、その人間の人相(つまり、外観)をも決定する。様々な外的影響の外にも、人間の願望、意志力、自己決定力、想像力(表象力)が、次 の再生の際の彼の人相(現在の人生の人相をも)を形作る。又、これは動物学上の動物の外形とも関連する。地球でも良く知られている様に、人間の顔が動物、例えば鳥、ブルドック、ライオンに 似る事がある。人間の顔がどの程度動物の顔に似るかは、本人の今までの人生(過去生も含めて)の中での意志力、自己決定力、想像力等からなる願望の程度によって決ってくる。つまり、その人間が鳥になりたいと言う願望がある時(これは重要な根拠である)、彼のその様な願望志向が強い時に、次の再生の時に、彼の顔は実際にその様な動物の顔(身体も同様に)に似てくるのである。

 (ここで断っておくが、この件は人間が動物と性的に交わった時に生ずる奇形や怪物の顔の相と全く無関係である。ー般にこの様な怪物の発生する確率は2千5百万分の1である)

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「瞑想」 p31 

翻訳:H.THOMA

「集中の方法」

人間の物質領域と霊的領域に発生する全ての出来事には、二つの決定力が支配しています。

1 直接的力   
2 間接的力

これらは次のように呼ばれています。

1 物質的意識
2 物質的下意識

この二つの力は、ある「仲介因子」(これは柵とか検閲官とか呼ばれています)の支配下にあります。この仲介因子は物質的意識と無意識の間に存在しています。

1 「直接力」/「物質的意識」-人間の中にあるこの力は、次の様な機能を遂行します。すなわち、決定、思考力、熟慮、思索です。つまり、本来の「思考する能力」です。

2 「間接力」/「物質的下意識」-これは「物質的意識」のすべての現象を蓄積する力です。すなわち、過去に起こったすべての知覚、感情、見たもの、聞いたもの、体験したことを「物質的下意識」に浸透させ、記録する能力です。人間の内部にある真のコンピューターであり、「自己指導と命令の中心部」であり、「人間の内部のすべての連絡」を管理し、更に「霊的領域との連絡」も行います。

この「指導-命令中心部」は、一人の人間から他の人間への内的伝達を行います。つまり、「ある人間の無意識から、他の人間の無意識への波動の発信と受信を司る」のです。

指導-命令中心部は、「無意識から無意識への波動的結合を司る」わけです。(「内外の伝達、意志の疎通」)
人間の「物質的無意識は独自の波動」を持っており、外界の波動に反応します。この外部波動は、物質的無意識と同調します。すなわち、同じ波動、又は、類似の波動と同調し、ただちに「結合インパルス(刺激)」をつくり、それが「超光速度で物質的意識領域へ放射」され、そこで「知覚」されます。
           
すると、「瞬時にして想念が発達」しはじめ、この想念が感情を伴った「共感」を起こすのです。もし、外部波動が物質的無意識に結合されず、突き離されたり、変形されたりした場合は、その「波動インパルス」がすぐ意識に伝えられ、そこで「反感」が生じます。 「波動の強度」に応じて「共感」と「反感」も強くなったり、弱くなったりします。
           
「はっきり認識すべきこと」は、「物質的意識」は、無意識からのインパルスが、「活動を起こすように催促」しなければ、独自に想念をつくったり、形成したり、発達させたり、実行に移したりする力はありません。

従って、物質的意識は、見たり、聞いたりした事を全て吸収しますが、無意識からくるインパルスが、吸収したものを消化し、処理する命令を出さなければ、見聞したものは知識とはなりません。
           
「想念や意識が吸収したもの(見たり、聞いたりしたことなど)」が確認され無意識へ達する前に「柵」又は「検閲官」を通過しなければなりません。この仲介因子はすべての吸収されたものを、「無意識の論理的言語」に変換し、記録できるように処理します。               
           
これはあらゆる専横を排除する為です。この変換はとても重要です。この現象は、無意識から意識へ移行する時にも行なわれます。もし、この仲介因子が存在しなければ、、無意識から意識へ達するインパルスは大打撃を与えるでしよう。

物質的意識は、このインパルスを独力で処理する能力はありません。「検閲官」は想念や体験したものを、全てそのまま物質的無意識へ押し込むのではなく、「真実のものだけを記録する」のです。
           
「表面的な想念、表面的な体験」は決して無意識へ入っていきません。何故なら、そういうものは「非論理的であり、従って、利用できません」から排除されます。
           
ところが、非論理的想念でも、集中的に施行すると、無意識へ進入してきます。

これは「集中的に受け入れた感情、見たもの、聞いたもの」などが無意識に記録されるのと同じです。こうして、ついに「プラスとマイナスの想念」が現実化するのです。

精神的領域 ( Der psychische Bereich )

「精神的領域」が、無意識によって直接操作されると考えるのは完全に間違いです。と言いますのは、実際は、前に説明したように、「無意識からインパルスが出て、それが超光速度で物質的意識へ伝わり、それから想念現象が始まる」のです。ここで「精神の形成」が始まるのです。

前に述べた様に、間接的力(2 間接的力 / 物質的無意識)は命令本部であり、これは全ての場合にそう言えます。精神の形成についてもそうです。
     
精神は、思考と感情から構成されていますが、そこから気分と士気が生じます。「物質的無意識から出たインパルス」は、「物質的意識」の中に「想念」をつくり、その種類に従って「感情」を動かし、特定の「気分や士気」が生まれます。

これらは、同情、反感、無気力、憂欝、冷笑、喜び、悪意、多幸症、楽観論、悲観論等々、更に、厭世観、社会改革主義、儀式宗教、狂信、そう病等として現われます。不信、意気消沈、不安、恐怖等は同じ極に休んでいます。
           
それらは間接的に無意識のインパルスから解き放たれると、意識はそれらを誤った形に形成します。
残念ながら、意識は常にその傾向があります。物質意識は不完全な為に、「創造と自然法則と戒律」を無視し、すぺてを「自己裁量」に従って処理するのです。
           
ですから人間は、「自己の直接的力」、すなわち、「物質的意識」を「論理的な創造と自然の法則と戒律」に従わせる「義務」があります。
           
これは次の様にすることを意味します。「想念全体を転極する」のです。つまり、プラスかマイナスにするのではなく、「中性」にすることです。中性化することのみが唯一の正しい方法です。
            
「想念の根本的規律」は、「常に中性に転極しなければならない」ということです。つまり、思考はプラスだけ、又はマイナスだけに偏ってはいけません。純粋な中立、中性でなければなりません。
            
この「理論の意味」は、「目標設定は、常に中性化した思考に基づいて造られなければならない」ということです。

想念は常に、しかも全般的に制御すべきです。つまり、すべての想念は意識的に制御されなければなりません。想念は中性的性格を示すべきです。

ですから、想念は非論理的であったり、非現実的であったり、幻覚的であったり、プラスやマイナスであってはならないのです。
            
たとえば、目標を設定する場合は、決してプラス又はマイナス的思考を選択してはならず、中性的思考方法を取るのです。

もし、目標があるならば、それは完全な中立的立場、「それはそうである」という「原理」に合わすべきです。

「私はぜひこの目標を達成したい」(プラス)とか「私はこれを達成しなくてはならない」(プラス)、
あるいは「私はこの目標は達成したくない」(マイナス)とか「私はこれを達成する必要はない」(マイナス)とか言う考え方を決してしてはいけません。
            
このような考え方はまったく暗示的であり、従って、幻覚的で非論理的になります。「それはそうである」という原理は、論理的な形式であり、永久に不変です。

これは、願望像は決して熟考してはならないということを教えています。 それは非論理的で幻覚だからです。
            
目的は「それはそうである」という範囲内で実行すればよいのです。すべての目的(目標)は中性的で「絵画」の様に鮮明につくるべきです。人間は、「絵の形式で目的を造る」ことを学ぶべきです。
            
そうすれば、その「絵」像が無意識の中に定着しやすくなるのです。無意識は活発に論理的に絵像に反応します。その為、意識から投影された絵像は、非常に簡単に無意識に受け入れられ処理されます。
            
これから明らかな様に、「目標などに関する想念は、すべて絵像と色彩像に変形すべき」です。この「絵情報が無意識へ吸収」されると、すぐそれに「相当するインパルス」が再び物質的意識へ戻されます。
            
練習者はこのことを長い練習によって体得しなければなりません。人間は自己の意識と無意識を評価する前に、それらをまず学習しなければなりません。
           
つまり、彼は無意識からくるインパルス情報を認識し、認知し、意識の言語に変換し、それによって理解し評価しなければなりません。

そうすれば、それらは新しい想念と行動などを、更に発達させる素材として役立つのです。「無意識からのインパルス」は、主に「予感、内的衝動、直感、ひらめき,内なる声などの形」となって現われます。
            
人間はこのインパルスを直接的力、すなわち、物質的意識を用いて考慮することを学ばなければなりません。

物質的意識は実際には、主要な物質的発達において、単に直接的処理本部にすぎず、進化の全分野においては、わずかな力と活動性をもった二次的分野の主要部門の一つにすぎません。
            
その物質的意識の実際の活動能力をパーセントで示しますと、平均してわずか14%しか発揮しておらず、物質的無意識も約33%しか活動していません。しかし物質的無意識と意識が完全に機能しますと、100%になるのです。物質的意識の活動は、すべてが直接的力である物質的意識自体に属する現象ではなく、必ず間接的力である物質的無意識からくるインパルスの上に築かれるのです。

ということは、物質的意識のすべての活動は、無意識の情報インパルスの基礎の上に行われます。目標造りについては、目標(目的)を物質的意識の中に造るわけですが、その際、「高度な集中力」で「中性的想念と想念の絵を形成すること」を勧めます。
            
すると、それらは「検閲官」を通過して無意識に導かれます。無意識では「それはそうである」という原理でそれらを貯蔵します。つまり、意識と全く同じ形(もちろん変換の過程を経ますが)
で貯蔵されるのです。そこで処理され、その結果を再び「それはそうである」(ありのままに)という形で意識へ押し出すのです。
            
次のことをはっきり認識してください。

目標造りは今述べた通りに管理すべきですが、ただそれだけではなく、「日常生活の全ての想念についてもそうすべき」です。ある目標を達成するには、日常生活のすべての想念について、真に中性的な態度を取ることを、少しずつ訓練するのです。
            
それによって「中性的態度」が身につくのであり、そうして初めて真の中性的目標造りが実行できるのです。もし人間が、自己のすべての想念を中性的な形に調整することができない場合は、彼の人生は浮沈の激しい生活が続きます。
            
それはたとえば、彼は操舵装置のない舟に乗った乗客の様なものであり、果てしない海の荒れ狂う嵐と変りやすい波に投げとばされ、常に危険に曝され、次の瞬間、巨大な海流に吸いこまれて底無しの海中に沈んでしまうようなものです。
            
彼は「幻想の構築と破壊を繰り返し」、決して真理を見ることはなく、絶えず「陶酔感を伴う幻影の中に漂う」のです。もし、目標造りが「それはそうである」という形で造られ、決定されるならば、その目標造りは非論理的でもなく、抽象的でもなくなります。ということは、「目標造りは現実に一致しなければならない」ということです。つまり、それは「人間の本質に一致すべき」です。
            
しかし、彼の性質と立場に従って造られるべきでもあります。換言すれば、それは彼の人格に合致したものでなければならないということです。目標造りは、無意識のインパルスから生まれ、それを受けて意識は適当な目標を思考し、追求し、評価を与えます。
            
真の目標を検証する為には、客観的思考方法を獲得すべきです。決して幻想の入る余地を与えてはなりません。真の目標設定と目標達成を行うには、目標へ至る順序を首尾一貫させます。

目標設定(造り)は、必ずしも最終的結果を明示する必要はありません。ということは、つまり、
真の目標に随伴して起こる副次現象(たとえば「忍耐、寛容、調和」など)をいわば下位目標として設定すべきです。

それはこういうことです。

人間は「それはそうである」という原則を用いて真の目標をしっかりと念頭において、ただちに、その目標(最終目標)に接近するのではなく、下位目標から始めるのです。目標設定には多くの妨害現象が必然的に現われ、最終目標を破壊し、混乱させます。
            
そこでその妨害要因を、徐々に除去しなければなりません。妨害現象が起こった時、それを「論理的思考」によって見破り、除去するのです。

そういう場合、下位目標を設定して妨害要因を遠ざけることです。その際、一度にーつの妨害要因を取り除くことです。決して一度に二つ、又はそれ以上の妨害要因を除去してはなりません。

価値ある目標と下位目標を造り、あらゆる点で効果をあげるには、人間は自ら目標を造り、それに相応しい結果によって、「自己を内的に大きく形成」しなけれけばなりません。
            
こうして自己の能力を発展させ、活動的で、力強く、調和ある人間に成長させるのです。これは大変重要な事ですが、人間は満足のゆくまで自己を造り、自分の環境を造り、あらゆる分野で活動的になることです。
              
自身の健康、認識力、処理能力、理解力、実践能力などが正しく調和を保ちながら機能すれば、あらゆる点から見て、真実の、公平で、健全で、論理的で、強力な目標造りが保証されるのです。
            
一般に目標造りには、物質主義的性格を強調してはなりません。これは非常にまれな場合にかぎって許されるのです。たとえば物質的目標の達成に必要な条件(副次現象)たとえば、忍耐力を養成することは重要です。こういう忍耐力を下位目標として組織的に鍛練します。
(場合によって否定的(マイナス)価値を造ることもあリえます)
            
片意地に物質的最終目標に執心して、「どんな事情があろうとも、それを手にいれなければならない」そういう強情さでもって、物質的最終目標を設定する必要はありません。

こういう頑迷な人間は、ただ最終目標だけしか見えませんから、「重要な副次現象(目標達成に必要な条件、たとえば寛容、愛情、調和、平静、自己認識、行動力、力、満足、周囲の世界との連係と友好関係、自己の人格の発展性、技能、活動と健康に関する喜び等々)」を無視するのです。
            
この副次現象は、秩序を保つために有効であり、それによって最終目標を達成するのが可能になり、「霊的目標にとって重要な価値」となるのです。

もし、この方法に従わないならば、この方法といいますのは、「霊的目標を最終目標として設定し、副次現象を下位目標とすること」です。もし、この方怯に従わない場合、この人間は手に負えない頑固さで、どんな状況にあっても、無理矢理、目標を達成しようとします。
              
こうして彼は間違った道をかたくなに歩みます。彼は脇道をもたない通路を造るので必ず障害物が現れ、それを避けて通ることができず(たとえば山とか海などに直面して前へ進むことができず)
道は突然行止りとなり、目標は近くに見えるけれども押し返されるのです。
            
この例から明らかな様に、人間はもっぱらーつの目標のみに没頭して、下位目標を持たずにいる時は、彼の目標自体が妨害されるのです。
            
こうした行為は「自己の人格を傷つけ、強制的行為で、反人格的」であります。何故そうなるかと言えば、下位目標を設定し、それに従わないからです。この強引なやり方から脱却するには、霊的目標を正しく実現させなければなりません。

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