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 「昨日(過ぎ去った時代)と今日の人間そして運命」

昨日(過ぎ去った時代)の人間は、明確な感覚(pl)を持って、悟性や理性を持って、また自らのイニシアティブを持って、そして明確に意識を持って、人生を通って去りました。

彼「昨日(過ぎ去った時代)の人間」はまた、自分があらゆる人生場面に於いて、自ら勝手が判らなければならなかったことや、また自分の人生をことさらに守り通さなければならなかったこと、を知りました。

それとは対照的に、今日の人間は、それ故に、絶望的な状態にあります。何故なら、明確な悟性や生きるのに必要な理性の圧倒的な欠如に苦しんでいるだけでなく、あらゆる人生場面での勝手が判るための、また人生を守り通すに当たっての良い能力(pl)の欠如にも苦しんでいるからです。

この、より若い世代の全体は、もはや自力で悟性と理性を意のままに処理し、あらゆる人生場面で、それらからベストを創りだし、或いは人生を目的に適った方法で克服する能力はないのです。

今日の人間(pl)では、つまり次のことが実際にその通りなのです。即ち、彼らは、彼らの人生場面、特に彼らの生活が殆ど、或いはまるっきり、自分ではもはや克服できず、従って、彼らは、他人による人生遂行のための助けなしには、もはや殆ど暮らして行けないか、或いはまったく完全に生活能力がない、と言うことです。

無数の必要とする助けは、それ「助け」がまともな生活スタイルに関して、今、悟性的な才や理性的な才のある心理学者(pl)に起因しようが、或いは或る程度の悟性的な才や理性的な才のある人間(pl)に起因しようが、まったく同じなのです。

しかしそれ故に既に、他の災いが始まっています。つまり、この助けが多方面で見つけられないと言うことです。何故なら、そうするだけの人生経験のある相談相手(pl)が存在しないからです。

人生や人生の形成そして人生遂行等に関して、助言を与えるか、或いは精神的な問題を解き明かすべき、心理学者(pl)や精神科医(pl)が何千回も訪問されます。

しかし、この事実は、全体は極端に疑わしいです。その理由は、多くの心理学者(pl)や精神科医(pl)は自分自身にその助けを必要としており、そして自分の人生、自分の人生形成、自分の人生遂行を自分で上手に処理できないからです。このことは一般には、吟味に引き入れられないか、或いは全く単純に否認され、そして否定されるのです。

人生遂行と人生の形成に関して、そして人生を真実に生きるために、多くの援助を求める人々は、また、怪しげな本(pl)の中に、彼らの下賤な人生遂行と人生形成から飛び出して、そして一つの本当の人生を実際に生きることができるための道を探索するのです。

あらゆる種類の怪しげで、低俗な偽心理学の助言者(pl)と共に、その手の中で、彼らはその通りに面して立ち、自分の部屋に身を隠して、ベンチにしゃがむか或いは公営の交通手段に座ったり、また黙って、そして愚かに無価値な書き物(pl)や本(pl)に慣れ親しみ、まことに何も価値がなく、従ってそれらから、如何なる現実の利益も獲得され得ない、それらの書き物(pl)や本(pl)に、専門書の名声が与えられるのです。

それらの書き物(pl)や本(pl)そして能力のない心理学者(pl)に労力要求する者たちは、それらを通して、彼らの日常生活のすべての人生エリアで洗練され、そして計画通りに進むようにできると信じていますが、しかし、同時に彼らが実際に為すことは、もはや子供っぽい騒ぎ立て(pl)以上の何ものでもありません。何故ならば、それらのすべては大人へと導くことはなく、むしろまことに、より一層、人生のオフサイドへと導くからです。

このことは、すべてが、書き物(pl)や本(pl)の形での間違った心理学的なカウンセラー(pl)或いは能力のない心理学者(pl)によって創り上げられたひとつの信仰にのみ基礎を置いている故です。

この結果は、その人間が本当の知識を努力して身に着けること、の代わりに、不断に、実際の人生の殆どを、また健全な人生形成や人生スタイルの殆どを道から逸脱し、そしてただ信仰することに因るのです。

しかし、もしも、その人間に真実の知識が不足しているならば、その時、彼は、最終的には、そのような馬鹿げたナンセンスですら、信じます。

もしも、その人間がこの知識に結びついておらず、自分の人生の絶対的な計画性が可能であるということに関しての信念に結びついているのならば、そのことは、それ以上でも以下でもなく、ただの人間特有の空想の産物に相当する、何らかの神へのあらゆる信仰のような間違った信仰シナリオに相当しています。

自分の人生についての絶対的な計画可能性、そして自分の日常生活のすべての歩みが自分で決定され得ることについての混乱した信仰は、ひとつの計り知れぬ程深い幻想に相当します。

しかし、あらゆる場合に、もしも、彼が自分の力で克服しなければならない何かが近づいて来るならば、彼が自分の力で、また自分の悟性と理性そして処置能力によって為し得る物事は、その人間によって自分で決定されうるのです。

人生でのあらゆる歩みが自ら決定されえないと言うのが事実なら、従って、そこかしこで、自分の意欲や能力に従って何かをやることはできず、その時、いわゆる運命がバタンと閉まることが、受け入れられねばならなりません。

昨日、つまり、かつて、より純粋な人間が運命と人生を包含、つまり従属させていたので、従って、彼は単純に、彼の運命と人生を克服し、そして、それ「人生」を正しく形成しそして正しく導くための権利を行使していました。

今日の人間の大多数は、もはやその能力がありません。何故なら、運命のそのカテゴリーに属する何かが彼に命中し、その時、彼が完全に失敗するか、また、あるショックに陥り、そのショックのこわばりから、彼が殆ど或いはもはや二度と自由になりえないからです。

昨日(過ぎ去った時代)の人間が、もしも彼が予期せずに運命の一撃によって撃たれたとしても、自分で克服した物事、それを、今日の人間はもはや為すことができません。

もしも、彼「今日の人間」が例えば死と根本的に取り組まなければならないとしたら、その時、彼は臆病にもしり込みをし、そして、それに対してすべての彼の感覚(pl)を閉じ、従って、愛する或いはいつも近くにいる人間が突然に、或いは長時間を越えて予期してもこの世から去る時に、彼はそのことを自力で消化することができません。

そして、今日の人間が不幸に見舞われると、それが自身に、或いは近しい関係にある人に関するものであろうと、彼はショックのこわばりに陥るか、また限りない自己憐憫に陥ります。

ですから、その時、すぐさま、次のような事実が現れます。即ち、昨日(過ぎ去った時代)の人間が自分でそうしたように、悟性と理性を働かせ、そして結果として生じている悲しみや苦しみを自分の力で克服するために自分自身ですべての必要なことを為す代わりに、他の方法での助けが探されると言うことです。

しかし、今日の人間は、次のように柔弱に、そして生活能力がなくなっているのです。即ち、彼はもはや、自分の想念(pl)と感情(pl)を悟性と理性によって意識的に制御下に持ち込むことが出来なくなっており、従って、彼は困窮や苦悩に際して、また、不幸に際して、また、そのようなきつい運命に際し、もはや自分で自己のイニシアティブによって自分を助けることが出来ないのだと言うことです。

どんな小さな困窮でも、どんな小さな悲惨でも、またどんな小さな苦悩でも、また、ですから、どんな小さい、また大きい運命の一撃にも、昨日の(過ぎ去った)人間が自分で自身を助け、そして他の方法での助けを探すことを恥とした場合の、如何なるところでも、今日の人間は助けを要求するのです。

しかし、今日の人間は、どんな小さな運命でも、或いは、実際にきつい運命の一撃でも、外からの助けを探し、そして受け入れることに、恥じることがありません。何故なら、彼は自分で生活能力を無くし、そしてどこまでも柔弱である故に、彼の運命を自分で克服でき無いからです。

事実はこうです。即ち、今日の人間の途方もない柔弱化が、社会の大半を襲った結果、もはや無数の運命の敗北者は、ただ仲間(pl)の助けによって保持されると言う理由によってのみ、生き延びるうるのだ、と言うことです。

ですから、上の事実から、心理学的な相談(pl)が大衆の中でブームになっていますが、しかし、その際、非常にしばしば、心理学に関する本当の知識を殆ど持ち合わせていない助言者によってなされていると言うことが、結果として生じています。

それはしばしば、それでもって助けを探す者(pl)が砲火を浴び、彼らに自然に乗り越えられえない、不十分な心理学の学校知識、或いは、絶対的な素人のたわごとに係わる問題です。その理由は、真実の助けと言うのが、ただ、運命に狼狽している者(pl)が、彼らが自ら自分を助けることへと導かれることにあるからです。

しかし、今日、まさに逆のことが起きています。何故なら、運命によって狼狽している者(pl)は一般に、< 助ける者(pl) >を頼りにしており、従って、苦しんでいる者(pl)はしばしば、非常に長い期間、或いは存在の全期間の間、助けを必要とするのです。

そして、事実はこうです。即ち、今日の人間は、長く成ればなるほど、彼の人生スタイル、人生形成に関して、また自身の人生克服に関して、問題(pl)や運命の一撃(pl)、悲しみや苦悩そして、困窮や悲惨によって、より多く、常により生活能力が無くなると言うことです。

過去(過ぎ去った時代)の人間の方法、つまり、自分の運命の一撃(pl)、自分の困窮や悲惨のあらゆる種類を自分で克服し、あらゆる種類の自分の問題(pl)を自分で解決するために、まだ威厳にみち、そして力が在った、以前の者(pl)の方法への帰路を見つける代わりに、今日の人間は、彼があらゆる最も小さい嫌な事、あらゆる災難、そしてあらゆる最も小さい心配事にも、他の人間の助けを必要とするのです。

もしも、何らかの関係にある誰かが亡くなるならば、それが家族であれ、親類関係者であれ、或いは知人関係或いは友人関係であろうと、その時、変えることの出来ない事実が理性的に扱われず、むしろ、それは想念的-感情的-プシケー(Psyche)的な虚脱状態を引き起こすのです。

出来事(pl)の変更不可能性に関してそれに結びついた頼るもののない状態は、しかし、一般に、そういう事態が起こった人間の損失でもって、直接何かをするはずはありません。何故なら、そのような厳しい運命による想念的-感情的-プシケー(Psyche)的な虚脱状態が実際に生じ、その厳しい運命によって、後に残された人間が自分で精神的な打撃を与えられるからです。

そして、これは後に残された人間が自身の中に自己悲嘆を保持すると言う形です。何故なら、彼はその後すべてを自分で処理しなければならないか、或いはもはや他のものと争うとか、また語り合うことも出来ない等、だからです。

ですから、非常にしばしば、真実の人を失った悲しみは保持されず、むしろ、深いところに根差した自己悲嘆、それが、精神的な損害に、人生の悲嘆に、そして虚脱状態に、またた、人生不全へと導くのです。

しかし、この運命の一撃には、愛する人の死は係わっているはずはなく、そのことで、昨日(過ぎ去った時代)の人間が一般に、彼が自分で自身を助け、そして人生を克服しなければならないと言う知識での純粋な理性から為したようには、今日の人間にはもはや自分を助けることはできず、また、自分で自身を再び制御下に持ち込むこともできないのです。

ただ、この知識と自ら自分を助けるための意志だけでも、彼に、エネルギーと力を与えました。それ故、彼「昨日(過ぎ去った時代)の人間」は自身の力によって、あらゆる可能な不愉快な事態(pl)や状況(pl)から自身を外向きに働かせ、そしてまた、すべての彼に命中する運命の一撃を威厳を持って乗り切ったのです。

昨日(過ぎ去った時代)の人間はまだ彼自身の主人や親方であったし、また同時に、困窮や苦痛での彼自身の救い主であったし、また同時に、すべての生活状態で、運命がどんなに厳しく彼を命中した時も、まったく同様に、彼自身の救い主でした。何故なら、彼はまだ、どう自分を維持し、そして利用したいか知っていたし、そんな一撃にタフであり、また彼の感覚(pl)、彼の悟性や彼の理性の主人であったからです。

残念ながら、昨日(過ぎ去った時代)の人間以来、非常に多くのことが、新しい世代(pl)の欠点になるように変わってしまったのです。

ですから、今日の人間に、既に、最も小さな機会や能力でもって、心配事-チーム、聖職者、或いは証明書もちの心理学者や精神療法医がいつでも使える状態で準備されており、またしかし、苦悩や運命からの一撃に、苦しみを味わっている者を、彼の運命を自分の力で片づけるために、自ら努力することへと導かない様にする方法で、信じ込ませるのです。

一般に、そのことによって、苦悩や苦痛また問題(pl)がまず適切に庇護されることへと導くものが、非建設的に行動に移され、そして狼狽している人々に、考え方や行動の仕方が実現し、それによって、彼ら「狼狽している人々」が現在、自分で自分を助けことが出来、また未来に於いて、もしも彼らが改めて運命の一撃に命中されても、助けることが出来ることに関係する改良についての、如何なる合図も生じないのです。

そして、今日の人間が彼の想念世界や感情世界に於いて、また、彼の悟性や理性に於いて、更に、彼の行動に於いて、もはや、昨日(過ぎ去った時代)の、つまり、より以前の人間のそれがなお特有であったのと同じものには相当していません。このことは、彼「今日の人間」が柔弱であり、そしてなお一層、まったくより柔弱になっているという事実が原因なのです。

ですから、彼「今日の人間」の生活能力や自立性はどんどんなくなるのです。

そして、このことは、特に、経済的な好景気な時代の間に進展し、それ「好景気」によって、人間(pl)が助かる見込みなく、その虜になる、地球規模の時流に乗った-資本主義体制が発生し、そのことによって、彼ら「人間(pl)」は自力で自分の運命を克服する、つまり、それ「自分の運命」が常にまたどのように見えようが全く同じに、克服するための能力を失っているのです。

しかし、このことはまた、今日の人間が、もはや適切に、また、冷静に大人になっていないことを意味しています。この理由は、加えて彼が、生まれつき与えられている能力を失い、また、子供のままでいることによって、それらを埋め合わせていることであり、従って、あらゆる種類の彼の生活領域(pl)で厄介で子供っぽい嗜好を示すのです。

そして、そのための起源は、彼、人間が如何なる現実な知識をももはや持たず、むしろ間違った信仰の子供っぽい触れ方に耽けることにあり、そのことから、彼の人生でのすべての物事が彼によって予め設定された道を走らなければならず、そのことによって、彼はすべての運命の一撃(pl)を回避できるだろうと誤って信じ込むのです。

そして、恐ろしく多くの今日の人間(pl)はそんな子供(pl)以上のなにものでもなく、しかも、一般にそのようなものなのであり、そのような子供(pl)は無力なのです。

ですから、大人になった今日の人間(pl)はまた、子供(pl)として死にます。その理由は、かれらの大人時代が、ただ幻想に相当するからです。

そして、まことに、非常に多くの今日の人間(pl)は大人に成長しておらず、また、たとえ、彼らが良くも悪くも物事を為すとしても、彼らは大人振れるだけです。

そして、これらのことが、彼らが自分の人生を先行して計画し、そして、自分に幸せが維持されるだろうことに、彼らは十分フレキシブルであるはずだと、彼の人生を長く信じる理由です。

そして事実、すべての運命の一撃を拒絶し、そして、決して、そんな運命によって襲われることはありえないと言う間違った信心の中で生きるというのが、人類の大半なのです。

しかし、もしもその時、それにもかかわらず事件が起こり、そして彼らが関係者(pl)になると、その時、彼らの全世界と彼らの全人生は崩壊し、そして彼らは、たけり狂って問うのです。即ち、何故、それがその時よりによって彼らに命中してしまったのか - つまり、他の者が襲われたのなら、それはまあ、どうでもいいのだけど、と。

事実、本当に多くの者たちは、彼らは決して酷い運命には打たれないだろうこと、何故なら、それ「酷い運命」は他の者たちにだけ生じうるからであり、何故なら、もしも、彼ら「他の者たち」が自分ですべてを扱い慣れているならば、彼ら「他の者たち」が如何なる災いによっても打たれることはありえないことは、もちろん明確であるに違いないからだと、信じています。

もしも、ですから、十分な愛が与えられ、また、良くて、確実な仕事が与えられ、病気は何も与えられず、そして良い子供たちが与えられたならば、その時、彼らに何も起こることはあり得ません- ですから、彼らは間違って思い込んでいるのです。

そして、もしもしかし、それが他の者にやってきて、そして運命を閉じるならば、その時、この完璧な信仰世界は崩壊します。

ですから、事実は、何も起こらず、そして如何なる運命の一撃もいつの日にも現実にはなりえないように、すべてが自ら操作されることに関する空想された全能、つまり、絶対的な偉力(Macht)に委ねることは、根本的に間違っていることを述べています。

このことは、明白に、不可能なことです。何故なら、自身の人生や自身の家族の、如何なる絶対的な計画実行性も可能ではないからです。

このことは、また、もしも、その人生が幸せ状態の時間に生かされ、そして、運命が試されないのならば、可能ではありません。

運命は自ら、個の人間が特に何らか関与しなければならないと言う事なしにしばしば実現するのです。何故なら、それ「運命」は、既に様々な外部の影響(pl)で事足り、それら「影響(pl)」によって、運命の一撃は無からのように発生し、そして作成された計画(pl)のすべてを打ち砕くか、或いは、それら「計画(pl)」を完全に打ちのめしうるからです。

今、述べられたことが全体として事実に合致していても、それはしかし、また古参の学生たち、まさに、昨日(過ぎ去った時代)の人間(pl)が、あらゆる運命の一撃に対して抵抗力が在ったと言う事実、つまり、彼ら「昨日の人間(pl)」がすべてを、自分の力(pl)で、自分の悟性で、また自分の理性や行動で、克服しえたと言う事実を、要求しません。

ですから、昨日、つまり、早い時期に、如何なる強さも学ばなかったし、人生に於いて無力を曝け出した人間(pl)は存在しましたが、しかし、それらの者たちは、ただ、ばらばらであり、今日の人間(pl)の場合のように、大群ではありませんでした。

昨日(過ぎ去った時代)の、つまり、以前の人間(pl)の多くは、2011年の今日ではもはや生きておらず、従って、今日、非常に多くの大人(pl)や成長した者(pl)つまり、人間たちの大半に、自身の想念世界、感情世界、そしてプシケー(Psyche)世界や自己判断に関する、また、昨日(過ぎ去った時代)の人間の大半にまだ固有だったような、それに結びついた生活能力に関する役に立つ行動(pl)への、自己救済、自身の動機や自身の意志に関してのあらゆる必要なものが欠けていると言われることが出来ます。

運命は偶然の出来事の意味では存在しません。

ですからまた、偶然の出来事は論理には存在しません。

すべては、因果関係の法則に組み込まれており、従って、あらゆる考えられる運命はひとつ或いは幾つかの定め(pl)の結果として生じます。

もしも、その人間が単純に生きているならば、彼の想念(pl)、感情(pl)、行為(pl)や行動(pl)から、結果に矛盾なく順応する、つまり、うまくつながる原因からのある種の価値(pl)が結果として生ずるのです。

更に、因果の法則つまり、原因と結果による繋ぎ合わせにしたがっての何かの不可避な物事である、不幸せと同じ位、あらゆる種類の幸せも生じうるのです。

これが、運命に相当しており、それが人間から、彼自身の偉力(Macht)を発生させ、更になお、それを、外部から彼に運んでこられ、そして彼がそれを自分で操ることが出来ないもので、運命と呼ばれなければならないもの、なのです。

これは、外部の力(pl)が働く故であり、そして外部の力(pl)がすべて、例えば、善悪の陰謀(pl)、行動(pl)や行為(pl)を決定し、それらのことが仲間(pl)によって実行され、そして犯され、また、あらゆる種類の出来事(pl)や状況(pl)、それらが、他の人間(pl)によって、動物(pl)によって、あるいは自然によって呼び出され、そして引き起こされ、それに基づいて、それらの運命によって一撃される、その人間は、もちろん、ほんの僅かも或いは何も影響力を持てないのです。

昨日(過ぎ去った時代)の人間の人生の原則は単純でした。当時、彼の日常生活のすべてが彼の前に在り、それ「人生」が常に彼に歩みよってくるように、持続的に自分の人生を生きると言う、良い想念(pl)と感情(pl)で、彼は生きたのです。

彼「昨日(過ぎ去った時代)の人間」は、一般に、恐れなく屈託なしでした。それ故に、彼にやってくる物事のすべてのために、非常に自由で絶対的にオープンでした。

しかし、まさにこの人生の原則が今日の人間にとって、失われているのです。何故なら、彼はもはや人生に迫れないからです。その理由は、彼が、およそ、あらゆる物事が、出来事(pl)が、そしてあらゆる状況等が確固として変わらずに予め計画されていなければならないという幻想の中で、それ「人生」を生きているからです。

しかし、このことは病的な幻覚です。何故なら、確かな原因と結果が発生する定め(pl)を決定し、それら「定め(pl)」が人間によっては制御され得ないからです。したがって、彼は運命の一撃に打たれ、その一撃を彼は自分で前もって決めることは出来ないのです。しかしその時、正しい方法で、彼自身によって、つまり、世話-チーム(pl)等によらず、発生てしまった物事のすべてにも拘わらず、彼はその一撃を克服しなければなりません。

しかし、既に述べたように、今日の人間は、このことをもはや自分では為すことができません。従って、彼に命中する物事(pl)、出来事(pl)、状況(pl)や運命の一撃は、もはや彼によって処理されず、また、克服されず、むしろ、一般に、不安、悲しみ、苦痛、困窮、悲惨そして問題の全体を、捕まえる処置でもってほどかれ、そして終わらせられることを、疑わしい < 救助をしてくれるもの > が委ねられるのです。

何かをその瞬間から単純に決定することは、今日の人間には、しばしば不可能であり、従って、固く決意し、その移植したものを実際に機能させるために、彼はしばしば、数時間、数日、数週、あるいは数か月さえ、必要とするのです。

多くの者たちにとって、それが小さい物事、或いは大きな物事の為であろうと、他の人間との会合の為であろうと、或いは休暇等々の為であろうと、そのために前もって計画が完成されている事なしで、何かに思い切って着手することは、単純に不可能になっているのです。

まこと、今日の人間は、非常にしばしば、もはや古くから実証済みの物事について考えて見ることをしません。そんな物事とは、昨日(過ぎ去った時代)の人間にとって、まだ自明であり、また重要なものだった物事で、それは今や、死について、教育について、人生の意義について、或いは直観について、そこから自発的に多くのことが立ち向かわれたのであり、そして、適切に成され得た、そういう物事のことです。

あらゆる出来事、あらゆる状況、そしてあらゆる運命の一撃に、< 何故、よりによって私に起こるのか >という方法で、背景を問われる必要はないのです。何故なら、そう問うことは完全に意味のない行為だからです。その理由は、それ「その行為」は事実、如何なる意味をも産み出さず、そしてすべては、原因と結果から生じ、そして一般に理解され得ない定めから生ずるからなのです。

しかし重要なのは、意識、知識、愛、現実とその真実、更に英知、平和、自由、調和、生き方、態度や振る舞いの発達に貢献する、それらの物事(pl)のすべてが、背景を問われることです。

それ、如何なる人生草案をも創らないこと、は想像力の如何なる欠如でもありません。何故なら、第一に、すべてがやってきて、そして第二に、まったく違うものが考えられるならです。

もちろん、人間は時々、自分の力の終わりを感じます。

しかしこのことは彼に、特に処理されなければならない物事を処理する義務を、彼が他の人間(pl)に負わせることの如何なる根拠も許しません。

これは、小さいスケールの考えであり、また実行可能性を越えている目標を設定していることです。

そして、自身の人生の生き方に他人が責任を負うとか、或いは負うことができるという誤りに陥られるべきではありません。

幸せな状態に当てはまる予め与えられた機会(pl)が外部に置いてあると言う、そのような基準に於いて自分自身を現実化することが、懸命になられるべきではありません。

もしも、一つ或いは他のものが、良くて、幸せな方法で、実現するならば、その時、それに相応しい、その時単純に運命と呼ばれる定めによって生ずる、原因と結果が対応するのです。

そして、神がその人間の個の人生の上に立ち、すべてを制御するだろうことなど無しに、この運命はそれぞれの人間に実現するのです。

もちろん、すべての上に立つ創造が存在しますが、しかし、それ「創造」は人間を操縦はしません。その理由は、そのこと「自分を操縦すること」を彼が自分で為すのだからです。

創造は、また、人間の面倒を見てくれる、巨大なものでもありません。その理由は、そのこと「人間を面倒見ること」は彼が自分で為さなければならないからです。そして、そのことを彼が自分で為した時のみ、彼は自分の人生で大事に扱われ、そして彼の境界(pl)から、転がりでることは出来ないのです。

しかし、このことを現実にするために、人間は自分の人生を生起させ、そしてそれに身をゆだねなければなりません。しかし、必要であり、為しうるところでは、それ「人生」は操縦されなければならなりません。

昨日(過ぎ去った時代)の人間が人生に立ち、そして、その中に居り、そして彼がそれ「人生」について専門家のように留意することはなく、むしろ、彼は、最善なスキルと良心でもって、それ「人生」を簡単に克服しました。そして、そのことによって、彼は満ち足りた人生を持ち、あらゆる人生の立場で、そしてあらゆる出来事(pl)で、あらゆる状況に於いて、また、あらゆる運命の一撃で、自ら助けることを知ったのです。このことは、今日の人間には、しかし、未知なのです。

従って、彼は今日、あらゆる可能な、また、不可能な機会をみて、一般に、人生に於ける、人生不適格者として、まだ或る程度は存在できるために、心配してくれるチーム、精神科医或いは祈祷師等を必要とするのです。

もしも、今日の人間が、定常的にただ、自分の人生を観察し、そして自己憐憫的でいるならば、その時、彼は、自分の人生を導くことができません。

彼が、喜び、幸せでありうるためには、彼は、自分で自分を助けることが出来なければなりません。しかし彼はそのことを、もしも彼が、何が自分を良くしてくれるかを知る時のみ為すことが出来るのです。

このことは、彼がただひっきりなしに彼の人生を観察するのではなく、むしろ、彼が自分自身に注意を払い、自分の想念(pl)や感情(pl)そして行動を、それが彼自身に相当するように、型付けするのだと言うことを意味して居ます。

今日の人間が、もはや、彼が自分の人生を自分で操縦しなければならないことを理解しません。その理由は、彼が、運命と、彼が自分の人生を手中にしていると、ただなお間違って信じているからです。

このこと、一方で、昨日(過ぎ去った時代)の人間が彼の人生を実際に引き受け、そして運命を単に、逃れられえない何かとして受け取り、従って、それは自分の力で克服されなければならなかったのです。

今日、人間は、彼が自分の人生でのすべてを計画できると信じてはいますが、しかし、彼はそれについて同時に間違いに圧倒されています。何故なら、運命は計画され得ないからであり、その理由は、それ「運命」が原因と結果の定めに縛られているからです。

運命について問う者は、人生をせず、しかしまた同時に、人生の意味を、そして、幸運と幸せな状態は、ただ、悟性と理性への一つの小さな思考の飛躍(連想)であると言う事実をも、理解しません。

今日の人間は、残念ながら、すべての何か物質的なもを幸運、つまり、物質的な幸運のすべてを幸運と解釈します。その理由は、彼らの人生が資本主義によって、また、増大する富を求めての不断な努力によって統制されているからです。

このことによって、結果的に、人生は、多くの富と成功が提示されるうる時のみ、良くて、価値があり、そして上手くいったものとして認められることになっており、一方で、人間が彼の運命を定めることができ、またそれ「運命」を自分の力で克服することが出来る時のみ、その人生は幸せで、価値がありえるのだと言うことになっています。

ビリー

SSSCにて、2010年11月11日 19.19h ビリー

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